名声の獲得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 07:00 UTC 版)
「ミシェル=フランソワ・ダンドレ=バルドン」の記事における「名声の獲得」の解説
1732年3月と10月にミシェル・フランソワの両親は死ぬ。遺言により、母方の名である「バルドン」と母方の紋章を継承する条件で、遺産継承者となる。これにより作品には「Dandré-Bardon」とサインすることになる。 彼は両親の埋葬地であるエクス=アン=プロヴァンスの古代マドレーヌ教会の聖マルコの祭壇を飾るために、福音伝道者の聖マルコを表す絵を描いた 。 この教会は革命の間に破壊され、絵は新しいマドレーヌ教会に置かれた。 1734年にパリに向け出発、エクス・アン・プロヴァンスを去り、 王立絵画彫刻アカデミーに入学する準備を開始した。ジャン・シメオン・シャルダン 、 ニコラ・ド・ラルジリエール 、 アレクサンドル=フランソワ・デポルト、シャルル・ガスパール・ギヨーム・ド・ヴァンティミーユ・デュ・リュックといった、当時の偉大な画家たちの間に座を占めた。パリの大司教は、かつてエクス=アン=プロヴァンスの大司教でもあった。この人物は、教会に対する最初の注文を発した 。1735年7月6日、王立絵画アカデミーは数人の役員を選出した。この選出の機会に、ダンドレ=バルドンは助教授(adjoint à professeur)に任命された。 残念ながら彼はルイ15世がヴェルサイユで手配した小さなアパートの装飾の注文を一切受けなかった。彼の唯一の注文は、教会の装飾のためのヴァンティミル枢機卿の友誼によるものであった 。 彼の家族の遺産を管理していた友人のジャン=ルイ・ダルノーが病を得たことに伴い、ダンドレ=バルドンは1741年にパリを離れ、エクス=アン=プロヴァンスに定住することを余儀なくされた 。 1742年にランベスクのノートルダム・ド・ラ・ソンプション教会の装飾に取り組み、1743年に友人のジャン=バプティスト・ボワイエ・フォンスコロンブのために数点の絵画を制作した(誕生、子供時代、青年時代、老年時代)。この個人蔵にあった作品は、グラネ美術館が購入した。1744年に物語画の連作を制作した(消失)。これはエクス・アン・プロヴァンス大学の集会室の装飾のために描かれたものだった。同様に「神学」、「博士へのイエスの説教」を主題とした一連の宗教画も制作した。。
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