遺産継承(1720年)
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「ジョージ・ドディントン (初代メルコム男爵)」の記事における「遺産継承(1720年)」の解説
帰国後はおじと同じく野党派ホイッグ党の一員として行動した。同1717年の議会立法に基づき、1718年に姓をドディントンに改め、1720年3月28日におじが死去するとその遺言状に基づき遺産を継承した。遺言状ではドディントンが一代限りで遺産を継承した後、その男系男子が継承し、男系男子が断絶した場合はジョージ・ドディントン(英語版)(1757年没)およびその男系男子、初代コバム子爵リチャード・テンプル(1749年没)およびその男系男子、その妹ヘスター・テンプル(1752年没)およびその男系男子が順番に継承すると定めた。また、イーストベリー・パーク(英語版)の地所では建築家サー・ジョン・ヴァンブラが設計した邸宅が1718年より建設中であり、遺言状では領地管理を30年間信託人の手に委ね、その収入を邸宅建設に充てることを定めたが、ドディントンは即座に信託を自身の直接支配下に置き、信託人の1人であるコバム子爵から訴えられることになった。1725年にはキャサリン・ベハン(Catherine Beaghan、1756年12月28日埋葬、エドマンド・ベハンの娘)と結婚したが、この裁判により結婚を公表できず、キャサリンは1742年に結婚が公表されるまでドディントンの愛人として扱われた。2人の間に子供はいなかった。 ヴァンブラ設計の邸宅は放棄されず、ドディントンが1738年ごろに完成させたが、合計で14万ポンドも費やされた。邸宅建設の支出によりドディントンは常に実入りの良い官職を必要とするようになり、その政治生涯にわたる重圧としてのしかかった。『オックスフォード英国人名事典』が評価したところでは、この弱点にドディントンのこれ見よがしな性格、恰幅の良い見た目、説教的な気質が合わさった結果、ドディントンが政治における重鎮になりえず、無節操で視野が狭い行動が繰り返されることになった。 いずれにせよ、1720年時点ではおじの手配により閑職であるアイルランドにおけるClerk of the Pellsを一代限りで任命され、同年6月20日におじの後任としてサマセット統監(英語版)に就任(1744年2月17日に退任)、7月9日にサマセット海軍次官(英語版)に就任(1762年に死去するまで在任)するなど、遺産継承に伴う影響力の増大が認められた。議会でもウィンチェルシー選挙区(2人区)、ウェイマス・アンド・メルコム・レジス選挙区(英語版)(4人区)を掌握し、ブリッジウォーター選挙区(英語版)にも影響力を有しており、相当な勢力になっていた。
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