領地管理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 03:22 UTC 版)
「ジョン・クライトン (第3代アーン伯爵)」の記事における「領地管理」の解説
伯父アブラハムは精神疾患を患って長年幽閉生活を送っており、1828年に祖父が死去するとアイルランドでの領地を譲られた。領地の内訳はドニゴール県4,826エーカー、メイヨー県2,184エーカー、スライゴ県1,996エーカーだったが、後に母から継承した領地と合わせてファーマナ県での領地購入を繰り返し(合計で93,108ポンドかかったという)、1876年時点で領地の内訳がファーマナ県31,389エーカー、ドニゴール県4,826エーカー、メイヨー県2,184エーカー、スライゴ県1,966エーカーになり、合計で年収23,804ポンド相当だった。領地の面積は1883年時点でも同じであり、年収も23,850ポンドとほとんど同じだった。 1827年にファーマナ県長官(英語版)を、1831年にドニゴール県長官(英語版)を務めた。1838年にファーマナ民兵隊隊長に就任した。1840年4月にファーマナ統監(英語版)に任命され、1885年に死去するまで務めた。 領地では1832年から1837年にかけてネオゴシック様式のクロム城(英語版)(エドワード・ブロア(英語版)設計)を建て、大火事の被害を受けた後の1841年から1843年にかけて再建した。1843年にアーン湖航行委員会(Lough Erne Navigation Committee)の委員を務め、アーン湖における航行の改善に努めた。1854年にはファーマナ・アンド・エニスキレン鉄道会社(Fermanagh and Enniskillen Railway Company)に10万ポンド出資して会長になり、1859年2月15日にモナハン県カースルブレイニー(英語版)=ファーマナ県エニスキレン間の鉄道を開通させた。 1830年代より領地での農業改良を奨励し、スコットランドから農学者アンドルー・メア(Andrew Mair)とウィリアム・ミルン(William Milne)を招いて借地人に輪作と家畜の屋内飼育について教えたほか、排水設備の建設や埋め立てといった領地改良に奨励金を与え、1839年にはファーマナ県リズナスキー(英語版)で農業博物館を開設した。また、アルコール依存問題への対処として領地でコーヒーハウスを開設した。 不作の時期には地代を減額したが、一方で投票指示に従わなかった借地人には地代減額を与えなかった。ジャガイモ飢饉ではアルスター運河(英語版)経由で食料を輸入し、カースル・クール(英語版)では率先して救貧連合に寄付、リズナスキーでは救貧法委員会の会長を務めた。1879年アイルランド飢饉(英語版)では貧しい住民に食料、衣服、燃料を配り、排水設備の建設計画を推進したが、メイヨー県での領地における代表として雇用したチャールズ・ボイコットが排斥運動の標的にされたため、後に態度を硬化させた。 『アイルランド人名事典(英語版)』は第3代アーン伯爵を地主パターナリズムの好例として評し、領民への責務を全うし、最後まで農業改革を支持したものの、一方でアーン伯爵の改革によりその権威の源である封建的制度が揺るがされることとなった。
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