選挙への影響力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 06:59 UTC 版)
「ジェームズ・グラハム (第3代モントローズ公爵)」の記事における「選挙への影響力」の解説
1779年に父からスコットランドでの領地管理を任せられると、モントローズ公爵家の選挙への影響力を回復させた。具体的にはダンバートンシャー選挙区(英語版)とスターリングシャー選挙区(英語版)で影響力を発揮した。1794年にスコットランドの統監職が設立されると、同年3月17日にスターリングシャー統監(英語版)に就任、1813年7月10日にはダンバートンシャー統監(英語版)に就任し、いずれも1836年に死去するまで務めた。 ダンバートンシャー選挙区ではかねてよりアーガイル公爵家が勢力を有しており、1780年の総選挙でフレデリック・キャンベル卿(英語版)を立候補させた一方、エルフィンストーン家などの反アーガイル派はジョージ・キース・エルフィンストーンを立候補させた。介入を決めたグラハム侯爵は1779年に新しい有権者を30人用意したが、新しい有権者が投票権を得るのは登録から1年と1日後、すなわち1780年9月15日だった。そして、議会が1780年9月1日に解散されると、アーガイル公爵派の選管は投票日を法律上許される最も早い日付である1780年9月14日に定めた。これに対しエルフィンストーン家はフィリバスターの戦術をとり、翌日の午前5時まで口論を続けたが、選管は投票が1日間だけであると決定して、27票対19票でキャンベルの当選を宣告した。新しい有権者の票も含めると42票対29票でエルフィンストーンの当選になるので、エルフィンストーンは選挙申し立てを提出、庶民院は議論の末1781年2月にエルフィンストーンの主張を認めた。1784年イギリス総選挙ではエルフィンストーン家が候補を指名し、その代償として次の総選挙でグラハム侯爵が候補を指名するという妥協がなされ、モントローズ公爵は1790年と1796年の総選挙で自身の支持する候補者を当選させた。 これによりダンダスはスターリングシャーで立候補した息子の落選を防ぐために、ヨークシャーのリッチモンド選挙区(英語版)でグラハム侯爵を当選させることを約束せざるを得なかった。リッチモンドがダンダスの懐中選挙区だったこともあり、グラハム侯爵は無投票で当選した。その代償としてスターリングシャーでは(与野党という違いがあったにもかかわらず)ダンダス家とグラハム侯爵が協力した。1784年イギリス総選挙では同様に協力したが、1790年イギリス総選挙では第2代準男爵サー・トマス・ダンダス(英語版)が当選、グラハム侯爵の支持する候補が落選した。1794年以降はモントローズ公爵(1790年に爵位継承)の支持する候補が再び当選するようになった。
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