即位、遺産継承、結婚とは? わかりやすく解説

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即位、遺産継承、結婚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:52 UTC 版)

ヘンリー2世 (イングランド王)」の記事における「即位、遺産継承、結婚」の解説

1127年ヘンリー1世は娘のマティルダ対す貴族たちの臣従誓いをさせ、1133年生まれた孫のアンリ(後のヘンリー2世)にも臣従取り付けた1135年マティルダ次のイングランド王定めて崩御、この決定マティルダ従兄スティーブンヘンリー1世の姉アデラの子)が異を唱えて同年イングランド王即位すると、両者の間に「無政府時代」と呼ばれる長い内戦続いたアンジュー伯ジョフロワ4世マティルダ長子として1133年フランス西部ル・マン生まれたアンリは、12歳になると(または13歳14歳になる1146年末か1147年初頭イングランド渡って母を助け1147年に母がアンジュー戻ってからも、1149年以降何度イングランド渡ってスティーブン側と戦ったいずれの戦闘短期間で、戦況にはさほど影響与えなかったが、母方大叔父に当たるスコットランド王デイヴィッド1世から騎士叙されたことでスティーブン動揺誘いマティルダ派に希望与えた1150年、既に父が征服していたノルマンディー公位を受け継いだが、同年8月フランス王ルイ7世若年王)はスティーブン味方してノルマンディー進軍、この時はルイ7世側近シュジェール仲介戦争は起こらなかったが、翌1151年1月シュジェール死去するノルマンディー政情不安定に戻った加えて、父がポワティエ代官ジロー・ベルレと紛争起こし捕らえたことでルイ7世との対立悪化スティーブン息子ブローニュウスタシュ4世ユースタス)もルイ7世からの援助獲得画策して一層複雑な情勢となっていった。この状況打破するため、クレルヴォーのベルナルドゥス仲介申し出た1151年8月父と共にルイ7世パリシテ島)のシテ宮殿に姿を現しベルレの件で破門された父がベルナルドゥスから提案された、ベルレ釈放引き換えにした破門解除和睦蹴ったため交渉決裂したが、父がベルレ釈放したため一件落着となりルイ7世臣従ノルマンディー公位を確定させた。さらに同年9月父の死によりアンジュー伯領を受け継いだ。翌1152年5月18日にはルイ7世王妃であった11歳年上アリエノール・ダキテーヌエリナー・オブ・アクイテイン)とポワティエ結婚し、彼女の相続アキテーヌ公領共同統治者となったアリエノール先夫であるルイ7世フランスの西半分アンリの手入ったことに危機感抱き自分許可なく結婚したアンリ宮廷出頭無視したことを口実7月ノルマンディー侵入アンリの弟ジョフロワ英語版)も領地相続の不満から加勢したが(父の遺言無視した兄にアンジュー相続権奪われた)、アリエノールの夫となったアンリ7月半ばから8月末までにこれを防ぎ、シノン・ルーダン(英語版)・ミルボー英語版)を奪取して弟を降伏させた。ルイ7世当初勢い失い休戦背後の安全を確保したアンリ1153年1月アリエノール残してイングランドへ渡った1月6日到着したイングランドでは劣勢に傾いたスティーブンから和平打診され、スティーブンの弟のウィンチェスター司教英語版ヘンリー英語版)とカンタベリー大司教シオボルド・オブ・ベック(英語版)が交渉当たった和平反対したウスタシュ4世8月17日急死すると、11月6日アンリスティーブン和平協定ウォーリングフォード協定ウィンチェスター協定とも)を結んでスティーブン次男ウスタシュ4世の弟のブローニュギヨーム1世所領保有など補償与えた上でスティーブン死後のイングランド王継承者となる。翌1154年春に一旦ノルマンディー帰還し、妻と渡海中に生まれた長男ウィリアム復活祭祝いルーアンで母と対面したりして過ごした10月25日スティーブン亡くなると協定どおりヘンリー2世として即位妻子連れて渡海して12月8日イングランド上陸した。そして12月19日ウェストミンスター寺院アリエノールと共にイングランド王王妃として戴冠したアリエノール妊娠中で不在1158年ウスター大聖堂英語版)で戴冠したとも)。ウィリアム1156年夭折する夫妻は8人の子儲けた。なお、この時からイングランド君主の称号は"Rex Angliae"(イングランド国王となっている。 これにより、イングランド王国アンジュー家によるプランタジネット朝創始されヘンリー2世領有する地域は、ピレネー山脈からアキテーヌポワトゥーにかけてのフランス南西部アンジューノルマンディーなどフランス北西部、さらにイングランドの新領土加えた広大なものとなった。なお、ヘンリー2世創始した王朝は、本来では「アンジュー朝」と称されるべきであり、事実15世紀までは「アンジュー」と呼ばれていたが、現在では一般にプランタジネット朝」が用いられる。これは、ヘンリー2世の父ジョフロワ4世エニシダ(プランタ・ゲニスタ)の小枝帽子刺して戦地赴いたことに由来するちなみに、弟ジョフロワには1152年降伏でルーダンだけ与え引き換えアンジュー領有認めさせた。そのジョフロワブルターニュ公国反乱起こした貴族たちの要請ナントになったが、1158年7月27日急死するヘンリー2世先祖からのブルターニュ宗主権主張してナント領有ルイ7世にも認めさせた。これは後にブルターニュ手に入れ布石となった

※この「即位、遺産継承、結婚」の解説は、「ヘンリー2世 (イングランド王)」の解説の一部です。
「即位、遺産継承、結婚」を含む「ヘンリー2世 (イングランド王)」の記事については、「ヘンリー2世 (イングランド王)」の概要を参照ください。

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