即位灌頂をめぐる五摂家の争論
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「即位灌頂」の記事における「即位灌頂をめぐる五摂家の争論」の解説
即位灌頂は天皇の即位式に不可欠な儀式として定着するにつれ、印明伝授を主に担っていた二条家に対して他の五摂家も印明伝授を求め、しばしば争論が発生するようになった。古くは1414年、称光天皇の即位に際して関白の一条経嗣と権大納言の二条持基との間に争論があったが、印明伝授をめぐる争論が本格化するのは、二条家に印明伝授が定着した江戸時代に入ってからである。 まず1611年、後水尾天皇の即位の際、二条昭実と近衛信尹との間で争論となり、時の征夷大将軍 であった徳川秀忠の裁定によって二条昭実が印明伝授を行うことに決定した。 続いて1687年の東山天皇即位の際は、時の二条家当主の二条綱平が当時、まだ16歳の若さで権大納言であり、しかも父である二条光平が死去した時、二条綱平はまだ3歳で、印明伝授の内容を父から伝えられたかどうか疑念を持たれたことから、大きな争論となった。二条家にとってさらに悪いことには、1675年の火災で二条家の文庫は全焼しており、先祖伝来の文章もほとんど失われてしまっていた。摂政の一条冬経と左大臣の近衛基煕から、まだ大臣の地位に就いておらず、父からのきちんと伝授がなされたかどうか疑わしい二条綱平ではなく、自らの家にも伝承があるので、ぜひ印明伝授を行いたいとの主張がなされた。結局この時は、霊元上皇がそれぞれの家説を確認した上で、かつて自らが受けた印明伝授を二条綱平に伝え、二条綱平が印明伝授を行うことになった。 1710年の中御門天皇即位の際は、摂政の近衛家煕と右大臣二条綱平との間で争いとなった。当時二条綱平は東山天皇の崩御に伴う服忌中であり、印明伝授を行うことが危ぶまれており、太閤であった近衛基煕の強い意向もあって近衛家が印明伝授を希望した。このときも霊元上皇の裁定によって二条家が務めることとなり、服忌中の二条綱平に代わって二条吉忠が印明伝授を行うことになった。 1735年の桜町天皇即位時も、関白である近衛家久が印明伝授を希望した。結局このときも中御門上皇が左大臣の二条吉忠に伝授を命じたが、中御門上皇は近衛家の伝承も尊重することを認めた。 1739年、桜町天皇は二条宗基に対し、印明伝授は二条家が行い続けるよう命じた。これ以降、印明伝授は二条家が行うことが確定し、争論はなくなった。
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