即位灌頂をめぐる五摂家の争論とは? わかりやすく解説

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即位灌頂をめぐる五摂家の争論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:09 UTC 版)

即位灌頂」の記事における「即位灌頂をめぐる五摂家の争論」の解説

即位灌頂天皇即位式不可欠な儀式として定着するにつれ、印明伝授を主に担っていた二条家に対して他の五摂家印明伝授求め、しばしば争論発生するようになった古く1414年称光天皇即位に際して関白一条経嗣権大納言二条持基との間に争論があったが、印明伝授をめぐる争論本格化するのは、二条家印明伝授定着した江戸時代入ってからである。 まず1611年後水尾天皇即位の際、二条昭実近衛信尹との間で争論となり、時の征夷大将軍 であった徳川秀忠裁定によって二条昭実印明伝授を行うことに決定した続いて1687年東山天皇即位の際は、時の二条家当主二条綱平当時、まだ16歳若さ権大納言であり、しかも父である二条光平死去した時、二条綱平はまだ3歳で、印明伝授内容を父から伝えられたかどう疑念持たれたことから、大きな争論となった二条家にとってさらに悪いことには、1675年火災二条家文庫全焼しており、先祖伝来文章もほとんど失われしまっていた。摂政一条冬経左大臣近衛基煕から、まだ大臣地位に就いておらず、父からのきちんと伝授なされたかどうか疑わしい二条綱平ではなく、自らの家にも伝承があるので、ぜひ印明伝授行いたいとの主張なされた結局この時は、霊元上皇それぞれの家説を確認した上で、かつて自らが受けた印明伝授二条綱平伝え二条綱平印明伝授を行うことになった1710年中御門天皇即位の際は、摂政近衛家煕右大臣二条綱平との間で争いとなった当時二条綱平東山天皇崩御に伴う服忌中であり、印明伝授を行うことが危ぶまれており、太閤であった近衛基煕の強い意向もあって近衛家印明伝授希望した。このときも霊元上皇裁定によって二条家務めることとなり、服忌中の二条綱平に代わって二条吉忠印明伝授を行うことになった1735年桜町天皇即位時も、関白である近衛家久印明伝授希望した結局このときも中御門上皇左大臣二条吉忠伝授命じたが、中御門上皇近衛家伝承尊重することを認めた1739年桜町天皇二条宗基対し印明伝授二条家が行い続けるよう命じた。これ以降印明伝授二条家が行うことが確定し争論なくなった

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「即位灌頂をめぐる五摂家の争論」を含む「即位灌頂」の記事については、「即位灌頂」の概要を参照ください。

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