遺産相続戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 07:08 UTC 版)
「ゾフィー・フォン・ブラバント」の記事における「遺産相続戦争」の解説
1248年にゾフィーの夫、アンリ2世が亡くなった。ゾフィーは4月23日にドイツ騎士団が防御を固めるマールブルクに拠点を構え、彼ら全員のルードヴィング家への忠誠を確認した。こうしてゾフィーはテューリンゲンおよびヘッセンの女領主として、ドイツ騎士団の支援で安全を確保した。彼女はこれにより、1244年に生まれたハインリヒが、後にヘッセン方伯領となる、ルードヴィング家のヘッセンの所領へ移行する基礎を固めたのであった。 1249年7月1日に、反乱を起こしたテューリンゲンの伯爵達、ケーフェルンブルク伯、シュヴァルツブルク伯、バイヒリンゲン伯、ホンシュタイン伯、オーラミュンデ伯、シュトルベルク伯は、新しいテューリンゲン方伯となったハインリヒ3世に服する事となった。これによりゾフィーはハインリヒ3世と一時的に和解し、1250年3月2日に協定(「アイゼナハ方針」)を交わした。これは、ヴァルトブルクとヘッセンを統治する彼女の息子ハインリヒをハインリヒ3世が10年間後見管理するというものであった。 1254年、娘のエリーザベトとアルブレヒト・フォン・ブラウンシュヴァイクとの結婚で、ゾフィーは新たな協力者を得た。アルブレヒトの父・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公オットー1世は、ハインリヒ・ラスペの死後テューリンゲン方伯領の北部の一角を保持していた。一方、1254年5月にマインツ大司教ゲルハルト1世と交わしたウーデシュタット協定でハインリヒ3世は、マインツ大司教区のテューリンゲン内の所領について行政権を委譲されていた。ゾフィーは、これが1250年の協定内容に違反していると申し立て、アルブレヒトの支援を得、新たな敵対行動でテューリンゲン継承戦争を続けた。 ゾフィーとその支持者は、1259年の春にテューリンゲンのヴェッティン家に対し新たな軍事行動を起こして攻撃を行った。1260年には、アイゼナハの市城やフラウエンブルク、メチルシュタインなどヴァルトブルク周辺の多くの城が破壊された。クロイツブルクとアイゼナハもゾフィーの拠点となった。しかし彼女はヴァルトブルクを攻略する事はできなかった。ハインリヒ3世は、翌1261年にはアイゼナハを夜間の奇襲攻撃により奪還した。
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