テューリンゲン継承戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/25 16:28 UTC 版)
「ハインリヒ3世 (マイセン辺境伯)」の記事における「テューリンゲン継承戦争」の解説
1247年に叔父ハインリヒ・ラスペ(ルートヴィヒ4世の弟)が亡くなるとすぐに、テューリンゲンでの権利を主張する従妹ゾフィー・フォン・ブラバント(聖人伯ルートヴィヒの娘で、ロトリンゲンおよびブラバント公ハインリヒ2世夫人)やアンハルト=ツェルプスト侯ジークフリート1世を武力で退けた。1250年に一旦和睦するも、1254年に再戦、ゾフィーの息子のヘッセン方伯ハインリヒ1世や婿のブラウンシュヴァイク公アルブレヒト1世の加勢もあって一時的に追い詰められるも反撃、1263年に長男アルブレヒトと次男ディートリヒの活躍で決戦に勝利、翌1264年に和睦、テューリンゲンはハインリヒ3世が相続、ヘッセンはハインリヒ1世が領有する事に取り決められた。 戦争の結果、確保したテューリンゲンとザクセン宮中伯領を長男アルブレヒトの、ラウジッツ及びランツベルク辺境伯領を次男ディートリヒの管轄下に置いた。これらを獲得したことは、オーデル川からヴェラ川まで、エルツ山地からハルツ山地まで、ヴェッティン家の支配領域を拡大する事となり、その広さはボヘミアのハプスブルク家をも凌駕していた。 しかし、アルブレヒトが愛人(後に再婚)との間に出来た息子を偏愛し、これに先妻の息子達が反発、内戦を始めてしまい、1288年のハインリヒ3世の死後も継続、孫のフリードリヒがアルブレヒトを捕らえて終結したが、和睦として領土を分割、弱体化してしまった。 ハインリヒ3世は勇敢であり、高貴であり、公正であり、芸術を愛する気前のよい派手好きな領主であった。「偉大なハイデルベルクの詩の古文書」(コデックス・マネッセ)に、ハインリヒ3世はミンネゼンガーとして登場する。手稿の1つ(14v)は彼を描いた絵であり、彼の詩は2つのページ(15r, 15v)に記されている。 注:この写本の中で彼はしばしば「ハインリヒ・フォン・マイセン」(マイセンのハインリヒ)と記述されている。文献学上、この呼び名は別人のハインリヒ・フラウエンロープ(女性賛美のハインリヒ)に対しても用いられ混同しがちである。特にこの同じ写本の中にはフラウエンロープの詩と伝えられるものもある。
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