テューリンゲン州内務大臣・教育大臣
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「ヴィルヘルム・フリック」の記事における「テューリンゲン州内務大臣・教育大臣」の解説
1929年12月8日のテューリンゲン州議会選挙でナチ党は11パーセントの得票を得て州議会に6名の議員を出した。 その結果テューリンゲン州首相エルヴィン・バウム(ドイツ語版)はナチ党との連立を決意した。1930年1月23日にフリックがテューリンゲン州内務大臣兼教育大臣に就任した(de)。地方政府とはいえナチ党員が閣僚職を手にしたのはこの時が初めてだった。テューリンゲン州内務大臣・教育大臣としてフリックが行った政策は後のナチ党政権の政策の先駆けだった。 ヴァイマル共和政シンパの警察官はテューリンゲン州警察から次々と追放され、ナチ党員やナチ党シンパの警察官が続々と送りこまれた。1930年7月にはイエナ大学にナチ党お抱えの人種学者ハンス・ギュンターの人種学の特別講座を設けさせた。反戦映画「西部戦線異状なし」は上映禁止処分となり、ジャズも禁止された。州の芸術大学ではかつてヴァイマルにあったバウハウス色の一掃が図られ、退廃美術反対派の評論家シュルツェ=ナウムブルクが招聘されて近代美術の展示や近代音楽の演奏が禁止された。一方で反ユダヤ主義プロパガンダ作品には一切の検閲が廃されてやりたい放題となった。 1931年4月1日にテューリンゲン州内務大臣・教育大臣職を辞した。1932年から再びミュンヘン最高保健局所属となる。
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