テューリンゲン方伯時代
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「ハインリヒ・ラスペ」の記事における「テューリンゲン方伯時代」の解説
1227年に第6回十字軍に向かう途上で亡くなった兄ルートヴィヒ4世の後を継いだ甥のテューリンゲン方伯ヘルマン2世の後見人を務めた。ヘルマン2世の母で後に聖女となるエリーザベト(エルジェーベト)とは不和な関係にあり、後に彼女をヴァルトブルク城から追放した。後の伝説では、ヴァルトブルクからのエリーザベトの追放は彼のせいだとしているが、それは事実であろうと推測されている。方伯夫人(あるいは方伯の母)という地位から降ろされたエリーザベトには、実際に彼女が行ったとおり、「キリストの模倣」以外に進むべき道はなかったのである。 1239年までヘルマン2世の後見人を務めたが、実権はハインリヒが掌握していた。ヘルマン2世は1241年に急死した為、後世の歴史家から毒殺が疑われているが、ハインリヒが甥の毒殺に関わった可能性は低いと考えている。現在遺っている当時の重要な文献の中にそうした言及はなく、ヘルマン2世自身1234年からテューリンゲン方伯として文書を作成しており、叔父との確執を伺わせるものはないことから、疑いはないと考えている。同年、ハインリヒはヨーロッパを襲ったモンゴル人との戦いに参加した。 エリーザベトが1231年にマールブルクで亡くなった後、ハインリヒと弟のコンラートは、寛大な贈り物として、ドイツ騎士団をマールブルクに定住させた。1234年の夏にドイツ騎士団はコンラートの入団を受け入れ、エリーザベトが寄進した聖フランツィスクス=ホスピスの運営を引き継いだ。コンラートは、教皇グレゴリウス9世によるエリーザベトの列聖実現に向けて努力を続け、1236年5月1日の列聖式には、ハインリヒと並んで神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世も出席した。 1242年、ハインリヒはボヘミア王ヴァーツラフ1世と共に、フリードリヒ2世の未成年の息子であるコンラート4世の代理人に任命された。これに対抗しようとする諸侯による戦争への動きを阻止しなければならなかった。一方、1242年までに3度結婚したが、子供は得られなかった為、甥に当たるヴェッティン家のハインリヒ3世(義兄のマイセン辺境伯ディートリヒの息子)をテューリンゲン方伯の後継者として認めるようフリードリヒ2世に働きかけた。
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