名声の到来
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「ローレンス・ヴァン・デル・ポスト」の記事における「名声の到来」の解説
戦争終結と軍での任務終了をもって、ヴァン・デル・ポストは1947年の終わり、「ナタール・デイリー・ニューズ」で働くため南アフリカに帰国するが、選挙での国民党の勝利とアパルトヘイトの攻撃からロンドンへ戻ることにした。後年、アパルトヘイトへの批判を出版しているが(『アフリカの黒い瞳』1955年)、そこでの洞察の多くは心理学へのいや増しに募る関心に裏付けられている。 1949年5月、「ニヤサランドの住居不能なニイカ高原、ムランジュ高原に、家畜がどれくらい耐えうるかを調べる」ことを植民地開発公社(CDC)から任命される。このころマージョリと離婚し、1949年10月13日、インガレット・ギフォードと結婚する。 インガレットと結婚する前、卓抜した農業家にしてビジネスマンの娘である、当時17歳の Fleur Kohler-Baker と婚約するようになっていた。2人は船上で出会い、簡潔とはいえ熱のこもった恋文をやり取りしていたので、ローレンスが関係を御破算にしたときは相手の女性は深く傷ついた。 インガレットとの新婚旅行でスイスに行き、新婦によってカール・グスタフ・ユングに紹介された。ユングはほかの誰よりも深甚な影響をローレンスにもたらしたようであり、後になって、ユング程の高い知性をもった人間にそれまで会ったことはなかったと述懐している。 ローレンスは『内奥への旅』という題を持つニヤサランド探検に関する旅行記の執筆を続けていた。この作品は1952年に出版されるや、たちまちのうちにアメリカ合衆国や欧州でベスト・セラーとなった。 1950年、ジョン・リース卿(CDC議長)から、カラハリ砂漠最奥部での牧畜経営の可能性を探ることを目的としたベチュアナランドの探検を指揮するよう、要請がある。ヴァン・デル・ポストはそこで初めてサン人として知られる狩猟採集で暮らす未開地の人々を目にした。 1952年、何度もカラハリへの旅に出る。1953年、第3作となる著作『The Face Beside the Fire』を出版する。本作は、自らの魂と魂の同伴者を求める、内面において「失われた」芸術家を描いた半自伝的な小説で、ローレンスの考えや文章にユングの影響がはっきりと表れている。 『フラミンゴの羽』(1955年)は、南アフリカを覆うソヴィエト型支配について、ジョン・バカン風の冒険譚の装いをした反共小説である。よく売れ、アルフレッド・ヒッチコックは映画化を計画したが、南アフリカの出版社からの後ろ盾をなくしたことから、これをあきらめた。ペンギン・ブックスはソヴィエト連邦崩壊までこの『フラミンゴの羽』を刊行し続けた。 1955年、BBCは、ブッシュマン調査のためカラハリに戻ることを命じた。この旅は、1956年、大変な人気を博した6部からなるテレビ・ドキュメンタリーになった。1958年には、ヴァン・デル・ポストの最も有名な書籍がBBCのシリーズと同じ題名で『カラハリの失われた世界』として出版され、続いてヴィルヘルム・ブレークによって著された19世紀のブッシュマン民話(『ブッシュマン民話抄』Specimens of Bushman Folklore, 1911年)を元にする『狩猟民の心』が1961年に発表された。 ヴァン・デル・ポストは、南アフリカの原住民としてブッシュマンを描き、他のすべての人種、国籍に組み込まれず、迫害されているとしている。全人類の「失われた魂」、ある種の高貴な野生の神話を体現しているとも述べている。 ブッシュマンの信仰体系をふくむ世界観を保全するために、植民地政府は、1961年、かれらの生活を保障する中央カラハリ動物保護区を設立、この保護区は1966年のボツワナが建国されたときに部分的に法的根拠をもつものとして認められたものとなった。
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