名声とスキャンダル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/25 15:29 UTC 版)
「クレオ・ド・メロード」の記事における「名声とスキャンダル」の解説
クレオはさらに美しく成長し、バレエダンサーとしての技量よりも彼女自身の持つ魅力で広く知られるようになった。クレオの額中央で左右に分ける髪型は、当時のパリジェンヌたちの間に瞬く間に広がった。 1896年、フランスの挿絵入り新聞「イリュストラシオン」で編集主幹を務めていたルドヴィック・バシェという人物が「フランス最高の美女」を選ぶコンクールを企画した。コンクールの対象となったのは、美貌で評判の高い女優・歌手・ダンサーなど合わせて131名であった。対象者には女優のサラ・ベルナールや歌手のネリー・メルバ(デザートピーチメルバの由来として知られる)など、現代にも名声を残す女性も含まれていた。対象者の写真はアルバムにまとめられてパリの某所に置かれ、人々がそのアルバムを見て投票するという形式であった。 7000人の人々がこの投票に参加し、当時のパリで大きな話題を集めた。当時21歳のクレオはこのコンクールで優勝者となり、さらに美女としての評価を上げた。 名声と同時に、クレオにはスキャンダルもつきまとうことになった。コンクール開催と同年に、彫刻家のアレクサンドル・ファルギエール(en:Alexandre Falguière)がサロンにクレオの裸体像を出品した。「顔だけのモデルをつとめた」とクレオは主張したが、人々はその言葉を信用せずクレオ自身のヌードと信じ込んだ。展覧会場となったパレ・デ・シャンゼリゼには、この彫像目当ての観客が大挙して訪れた。さらにこの彫像については、クレオの裸体から直接型をとって制作されたという噂までが広まっていた。この噂について鈴木は前掲書で「ダンサーの裸体にしては豊満すぎるように見えるが」と疑念を呈している。 同じ年には、ベルギー王レオポルド2世とのスキャンダルが流布された。レオポルド2世はオペラ座の舞台で、オペラ『アイーダ』を鑑賞した。この舞台でクレオは、リビアの踊り子役でバレエの場面に出演していた。当時61歳の王は、40歳近く年の離れたこのバレエダンサーの美しさに魅了され、彼女の楽屋をしばしば訪れるようになった。そのためクレオが王の新しい愛妾になったというゴシップが流され、巷間では2人の名を合わせた「クレオポルド」という言葉が流行した。このゴシップについても、クレオ自身が強く否定している。 1897年には、プルミエ・スジェの階級に昇進した。同年にクレオはオペラ座の許可を得た上で、アメリカ合衆国への旅興行に出かけている。 1900年にクレオはオペラ座を辞して、パリ万国博覧会に出演した。クレオはインドシナ館で「カンボジアの踊り」を踊って、大きな称賛を受けた。「カンボジアの踊り」について鈴木は、前掲書で「その一部は現在、YouTubeで観ることができる」と記述している。このとき、クレオはグスタフ・クリムトと出会っている。 人気絶頂の時期に、クレオはフォリー・ベルジェールへの出演を選んだ。クレオはフォリー・ベルジェールなどのミュージック・ホールで、ソロのダンサーとして出演を続けた。現役ダンサーとしての舞台は、1934年のアルカザールでの公演が最後であった。
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