名声と悪評 岸駒時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/29 07:30 UTC 版)
この名声を岸駒は活用し、天明4年(1784年)有栖川宮家の近習となり、同家の御学問所の障壁画を描く。翌年、宮家より雅楽助と称すことを許され、名を岸駒に改め、字を賁然(ひねん)、号を華陽とする。有栖川宮の庇護のもと、天明の大火で焼失した御所の障壁画制作に活躍し、同家の推挙もあって享和2年(1802年)に右生火官人(ういけびのかんにん)に補せられて従六位下主殿大属(とのものだいさかん)に叙任、文化5年(1805年)[要検証 – ノート]に越前介を兼ね、天保7年(1836年)には蔵人所衆に推補のうえ従五位下叙爵、翌8年越前守に任ぜられる。文化6年には加賀藩主の招きに応じて金沢に赴き、金沢城二の丸御殿に障壁画を描いて故郷に錦を飾った。天保9年(1838年)、83歳あるいは90歳の長寿を全うして没した。 岸駒は生前から画料の高さなどから悪評が高く、山師などと呼ばれたが、晩年に隠棲した岩倉の証光院が荒れ果てているのを私財を投じて建て直した逸話がある。東寺の食堂の天井に龍を描いたことで名声を得て依頼者が殺到したため号の「同功館」を印形にしたものを織り込んだ表装地を商い、「この手即天下の至宝」であるとして金襴の袋に右手を入れていたという。 門人は長男の岸岱、岸良、岸連山、岸龍、岸八行、河村文鳳、村上松堂、横山華山、桂有彰(青洋)、三木恒山、『画乗要略』の著者白井華陽、刀装金工家の大月光興など。 現在、一般に岸駒を初めとした岸派は認知されているとは言いがたいが、京都の社寺のみならず町家の至る所にまで岸派の作品が残っている。
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