名声の確立と独立
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「サラ・ベルナール」の記事における「名声の確立と独立」の解説
1880年にサラは「フランス人」の栄光とともに退職し、彼女には、契約の濫用に対する損害賠償として10万フラン相当の金が支払われた。彼女は自分で会社を設立し、その会社とともに1917年まで外国で演技の仕事をし、財を成すことにした。サラは、はじめて国際的な「スター」となった人物であり、五大陸をツアーしたコメディエンヌであった。そのスターぶりはジャン・コクトーをして「聖なる怪物」と言わしめた。また、遅くとも1881年に行われたサラ・ベルナールのロシア興行の際に、当時新聞記者であったアントン・チェーホフは、悪意のある筆致で次のように描いている。「北極と南極を訪れ、旅の軌跡は五大陸に広がり、海原を超えて、一回ならず天国まで昇ったこの女」。また、新聞記者らの狂騒を「固定観念」となったものの後を追って「飲まず食わずで、ただ走り回っているだけだ」と風刺した。 サラ・ベルナールは、ハムレットやペレアスのような男の役を何度も演じており、これに霊感を得たエドモン・ロスタンは1900年に「レグロン(フランス語版)」(ナポレオン1世の息子、ローマ王の話)を書いた。サラはロンドン、コペンハーゲンなどヨーロッパ各地はもとよりアメリカ合衆国でも興行を行った。1880年から1881年にかけて行ったアメリカ興行においては、一座の人員と8トンにも及ぶトランクの数々を運ぶためにプルマンの客車をチャーターした。ロシア興行の中では、1881年、1892年、1908年にサンクト・ペテルスブルクのミハイロフスキー劇場で行った公演が有名である。彼女の叙情性と明晰なディクションに観衆は熱狂した。サラは興行を宣伝するためにニューヨークでトーマス・エジソンに会い、シリンダーにラシーヌの「フェードル」を吹き込んだ。また、フランス人俳優としては非常に珍しいことに、サラはロサンゼルスの「ハリウッド名声の歩道」に星を埋め込まれることになった。 また、オスカー・ワイルドと親しいサラは、彼に戯曲作品を注文した。1892年に自身でタイトルロールを演じた「サロメ」である。1893年からサラはテアトル・ド・ラ・ルネサンス(フランス語版)の座長を務めるようになり、同劇場で絶大な成功を収めたいくつかの作品(「フェードル」や「椿姫 (fr)」)の再演をしたほか、数多くの新作(サルドゥ(フランス語版)の「ジスモンダ」や、エドモン・ロスタンの「遙かなる姫君」、モーリス・ドネー(フランス語版)の「恋人たち」、ガブリエーレ・ダヌンツィオの「死の村」、アルフレッド・ド・ミュッセの「ロレンザッチョ(フランス語版)」)を制作上演した。さらに1899年にはテアトル・デ・ナシオン(フランス語版)の座長にもなった。そして劇場の名前を「テアトル・サラ=ベルナール」と改称して、ロスタンの「レグロン」「遙かなる姫君」以外の新作や、サルドゥの「トスカ(英語版)」改訂版を上演した。ドレフュス事件のとき、サラは支持をエミール・ゾラに傾けた。また、ルイーズ・ミシェルを支援し、死刑に反対する立場を取った。 1896年12月9日は、女優の栄光を讃える「サラ・ベルナールの日」がカチュール・マンデスにより企画された。パリ中から人が詰めかけ、パリ9区のオテル・ル・グラン(フランス語版)における500人の招待客の会食ののち、テアトル・ド・ラ・ルネサンスの特別興行が催された。オテル・ル・グランからテアトルへの移動には200台の二人乗り馬車が仕立てられ、サラを先頭について行った。テアトルではアルモン・シルヴェストル(フランス語版)作詞、ガブリエル・ピエルネ作曲の「サラへの讃歌」がコンセール・コロンヌにより演奏された。 広告の重要性を認識していたサラは、舞台において自身の生活の一部分を垣間見せ、消費材の宣伝に自分の名前を躊躇せず関連づけた。彼女のスタイルとシルエットは、流行と装飾美術に刺激を与えたが、それだけでなく、アール・ヌーヴォーの美学にも影響を与えた。彼女は、画家のアルフォンス・ミュシャに自ら訴えかけて、1894年12月からポスターを描いてもらった。以降の6年間に渡るコラボラシオンは、ミュシャの作品に副次的な霊感をもたらした。1874年に妹のレジーナの命を奪った結核の病がサラの体をも蝕み始めた。家にクッションを敷き詰めた棺桶をしつらえ、その中に深く腰を下ろして休むことが常になった。スキャンダルが起きる前までは、家にナダールを呼んで、写真を撮ってもらっていた。その目的は写真や絵葉書を買い上げるためだった。 1905年にはカナダ興行を行い、ケベックでウィルフリッド・ローリエ首相の出迎えを受けた。しかしながら、当時カナダの大司教であったルイ=ナゼール・ベジャン(フランス語版)は大の演劇嫌いで、サラ・ベルナールの斬新な肉体を使った演技が官能的であると受け取られかねないと非難していた。彼は教区の信者らに興行のボイコットを呼びかけた。そのため、普段の群衆に慣れたサラは、部分部分に空席が目立つ観客席を前に上演することになった。
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