結婚と名声の高まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 14:44 UTC 版)
「ジャン・シベリウス」の記事における「結婚と名声の高まり」の解説
シベリウスがヘルシンキで音楽を学んでいた1888年秋、音楽院の友人だったアルマス・ヤルネフェルトから自宅への招待を受けた。そこで彼は当時17歳のアイノと恋に落ちた。父はヴァーサの長官であったアレクサンデル・ヤルネフェルト大将、母はバルト諸国の貴族を出自とするエリザベト・クロット=フォン=ユルゲンスブルクである。結婚式は1892年6月10日にマクスモ(英語版)で執り行われた。新婚旅行は『カレワラ』発祥の地であるカレリアで過ごした。この体験が交響詩『エン・サガ』、『レンミンカイネン組曲』、『カレリア』の着想を与えることになる。1903年にはヤルヴェンパーのトゥースラ湖畔に2人の住まいであるアイノラが完成した。結婚生活の中で、2人は6人の娘を授かった。エーヴァ、ルート、キルスティ、カタリーナ、マルガレータ、ヘイディである。エーヴァは工場の跡取りで後にパロヘイモ社の最高経営責任者となるアルヴィ・パロヘイモ(Arvi Paloheimo)と結婚した。ルート・スネルマンは著名な女優となり、カタリーナ・イヴェスは銀行家と結婚、ヘイディ・ブロムシュテットは建築家のアウリス・ブロムシュテット(英語版)の妻となった。マルガレータの夫となったユッシ・ヤラスはアウリス・ブロムシュテットの兄弟である。 1892年、『クレルヴォ交響曲』ときっかけとしてシベリウスは管弦楽に意識を向けるようになる。この作品は作曲家のアクセル・トルヌッド(フィンランド語版)が「火山の噴火」と評し、合唱パートを歌ったユホ・ランタは「『フィンランド』の音楽だった」と述べている。同年の暮れに祖母のカタリーナ・ボーリが他界、その葬儀に参列したシベリウスはハメーンリンナの家を訪れ、その後は家が古くなるまで立ち寄ることはなかった。1893年2月16日に『エン・サガ』の初版をヘルシンキで発表するも評判はさほど芳しくなく、評論家からは余計な部分を削除して切り詰めるべきだとの意見が出た。3月に行われた3回にわたる『クレルヴォ交響曲』の再演はそれよりもずっと不評で、ある評論家は理解不能でありかつ生気が欠けていると看做した。長女のエーヴァが誕生した後の4月には合唱曲『ワイナミョイネンの船乗り』の初演が行われて大成功を収め、記者からの支持を得ることができた。 1893年11月13日、ヴィープリのセウラフオネ(Seurahuone)で行われた学生団体主催のガラ・コンサートにおいて『カレリア』の全曲版が初演された。この公演には画家のアクセリ・ガッレン=カッレラと彫刻家のエミール・ヴィークストレーム(英語版)も舞台装置の設計のために招かれて協力していた。最初の演奏は聴衆の話声のために聴きづらいものとなってしまったが、11月18日の2度目の演奏はそれよりも上手くいった。さらに19日と23日にはヘルシンキに於いて、この作品から採られた長大な組曲が作曲者自身が指揮するフィルハーモニック協会管弦楽団の演奏で披露されている。シベリウスの音楽がヘルシンキのコンサートホールで演奏される頻度は高くなっていた。1894年-1895年のシーズンには『エン・サガ』、『カレリア』、『春の歌』(1894年作曲)が、トゥルクは言うまでもなく、首都でも少なくとも16回の演奏会で取り上げられている。1895年4月17日に改訂版の『春の歌』を聴いた作曲家のオスカル・メリカントは「シベリウスの管弦楽作品の中でも最も清らかな花である」と評してこれを歓迎した。 長期にわたりシベリウスはオペラ『船の建造』に取り組んでいた。この作品も『カレワラ』を題材としている。彼は一定程度ワーグナーの影響を受けていたが、その後リストによる交響詩を作曲への創意の源とするようになった。未完に終わったオペラの素材を活用する形で生まれた『レンミンカイネン組曲』は、交響詩の形式で描かれた4つの伝説から構成されている。組曲は1896年4月13日にヘルシンキにおいて満員の会場で初演された。メリカントが作品のフィンランドらしさに熱狂したのとは対照的に、批評家のカール・フロディンは「トゥオネラの白鳥」におけるコーラングレが「驚くべき長さと退屈さ」だとしている。その一方でフロディンは第1の伝説「レンミンカイネンと島の乙女たち」についてシベリウスのそれまでの創作の中の頂点を成すものであると考えていた。 生活のため、シベリウスは1892年から音楽院やカヤヌスの指揮学校で教鞭を執るが、これによって作曲のために割ける時間が足りなくなってしまう。状況が大きく好転したのは1898年に多額の年次助成金が交付されるようになってからで、当初は10年間の有期であった助成期間は後に生涯の交付へと延長された。こうしてアドルフ・パウルの戯曲『クリスティアン2世』への付随音楽を完成させることができ、1898年2月24日に初演された作品は馴染みやすい音楽で大衆の心を掴んだ。戯曲中でも人気の高い4つの場面に付された楽曲はドイツで出版され、フィンランドで好調な売れ行きを見せた。1898年11月に管弦楽組曲の演奏がヘルシンキで成功を収めた際、シベリウスは次のようにコメントを残している。「音楽はよく鳴っており、速度は適切なようです。自分が何かを完成させることができたのはこれが初めてではないかと思います。」曲はストックホルムとライプツィヒでも演奏された。 1899年、シベリウスは交響曲第1番の作曲に取り掛かる。この頃、ロシア皇帝ニコライ2世がフィンランド大公国に対してロシア化の試みを行っており、これによって彼の胸の内には愛国心が高まりつつあった。曲が1899年4月26日にヘルシンキで初演されると各方面から好評を博した。しかし、この時の公演プログラムでそれよりも遥かに注目度が高かったのは、あけすけに愛国心を露わにした、少年、男声合唱のための『アテネ人の歌』であった。この合唱曲によりシベリウスは一躍国民的英雄の地位を手にすることになる。11月4日に発表された次なる愛国的作品は『新聞の日を祝う音楽』として知られ、フィンランドの歴史を8つの挿話を描写する形で描いた作品であった。作曲を援助した新聞『Päivälehti』紙は、社説でロシアの規則を批判して一定期間の発刊停止処分中だった。最後の楽曲「フィンランドは目覚める」はとりわけ高い人気を獲得した。これが幾度か細かい修正を施されたのち、広く知られる『フィンランディア』となる。 1900年2月、シベリウス夫妻は娘のキルスティ(この時点では末娘)を失った悲しみに沈んでいた。しかしシベリウスは春になるとカヤヌス、並びに彼の管弦楽団とともに演奏旅行に繰り出し、13の都市を巡って交響曲第1番の改訂版などの最新作を披露して回った。訪れた都市はストックホルム、コペンハーゲン、ハンブルク、ベルリン、パリなどである。各都市は非常に好意的で、『Berliner Börsen-Courier』、『Berliner Fremdenblatt』、『Berliner Lokal Anzeiger』が熱狂的な論評を掲載したことにより彼は国際的に知られるようになる。 1901年にイタリアのラパッロを一家で訪れたシベリウスは交響曲第2番の作曲に取り掛かる。その際モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』に登場するドン・ジョヴァンニの運命からも霊感を得ていた。曲は1902年の初頭に完成されて3月8日にヘルシンキ初演を迎える。この作品はフィンランドの人々の間に熱狂の渦を巻き起こした。メリカントは「曲はいかなる想定をも超えて大胆不敵であった」という感想を抱き、エーヴェルト・カティラ(フィンランド語版)は「紛うことなき傑作」と評価した。フロディンもまた、「我々がこれまでに決して聴く機会を持つことのなかった類の」交響作品について書き残している。 夏の間をハンコに程近いトヴァルミンネ(フィンランド語版)で過ごしたシベリウスは、同地で歌曲『それは夢か』作品37-4を作曲すると同時に『エン・サガ』の書き直しを行った。これが1902年11月にベルリンにおいてベルリン・フィルにより演奏されるとドイツでの作曲者の名声は揺るがぬものとなり、そのすぐ後の交響曲第1番の出版につながることとなる。 1903年の大半をヘルシンキで過ごしたシベリウスは過度に飲み食いに耽り、飲食店で大金を支払っていた。しかしその一方で作曲も継続して行い、義理の弟にあたるアルヴィド・ヤルネフェルト(英語版)の著した戯曲『クオレマ』に付した6曲から成る付随音楽のうちのひとつ、『悲しきワルツ』が有数の成功作となった。資金難から彼は作品を廉価で売り渡してしまったが、たちまちフィンランド国内外で高い人気を博すようになった。シベリウスのヘルシンキ滞在中、妻のアイノは頻繁に手紙を書いては帰宅を懇願したが彼は応じなかった。4女のカタリーナが生まれ時すら彼は外に出たままだったのである。1904年のはじめにヴァイオリン協奏曲が完成して2月8日に初演を迎えたが、評判は芳しくなかった。このため改訂を経て凝縮度を高めた版が作製されて翌年にベルリンで披露されることになった。
※この「結婚と名声の高まり」の解説は、「ジャン・シベリウス」の解説の一部です。
「結婚と名声の高まり」を含む「ジャン・シベリウス」の記事については、「ジャン・シベリウス」の概要を参照ください。
- 結婚と名声の高まりのページへのリンク