結婚と危機
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「オーギュスト・コント」の記事における「結婚と危機」の解説
サン=シモンとの決別と死を契機に、コントは更なる挑戦を始める。 1824年、下院議長秘書や下院議員を務めたほか、サン=シモン派の雑誌『生産者』の編集長だったアントワーヌ・セルクレという若手弁護士と親交していた。セルクレはカロリーヌ・マッサンという元娼婦の女性と交際していた。 カロリーヌは1802年、シャティヨン=シュル=セーヌで田舎役者の父と下着職人の母の間に生まれ、貧しい労働者として育った。娘に母から売春で稼ぐよう強いられて、まもなく警察から娼婦として登録された。こうした中でセルクレがカロリーヌの母に金を渡して彼女の更生を手助けするようになったのだ。コントはこの二人に数学を教えていたのだが、カロリーヌはセルクレに捨てられてしまったため、コントと交際を始めた。彼女はコントと交際中も素行不良のために度々警官に職務質問を受けて尾行されていた。 こうした状況を憂慮してコントは結婚を決意、公証人シャルル・シャンピオンがパリ第4区区役所に婚姻届を提出、1825年2月19日、数学教授オーギュスト・コント27歳と下着職人カロリーヌ・マッサン22歳の結婚が成立した。この結婚は、結婚以外に道のない女と結婚のチャンスのない男の結婚であった。しかし、コントはこの結婚を半年も経たずに「失敗」と考えるようになった。原因は夫の貧困と妻の不忠実さであった。 1826年1月下旬、コントは『実証哲学講義』と題する講義を彼のアパートの一室で開講した。案内状によると講義は一年で完結、全72回の予定で開講した。この講義には、動物学者アンリ・ブランヴィル、エコール・ポリテクニックの恩師だった数学者ルイ・ポワンソ(英語版)、ドイツの地理学者アレクサンダー・フンボルト、経済学者シャルル・ディノワイエ(英語版)など高名な研究者が聴講に集まってきた。コントの才能を見込んだ学者たちが集まったとはいえ、若干28歳の青年が当代随一の学者を相手に開設した講義で、その光景は奇妙なものだったという。また、セルクレもこの講義に出席していた。 第一回は、講義の目的や実証主義の精神を紹介するイントロダクション。第二回は諸科学のイエラルシーについて講義し、第三回は数学を講義した。しかし、第四回でコントが突然の休講、原因は精神疲労であった。コントは講義の準備に追われ、社会学についての構想を披露するに当たって、極度の緊張の結果に精神異常をきたしてしまったのである。また、新婚の妻カロリーヌが夫を置いて家出したのである。カロリーヌは生活苦を理由に売春して金を稼いでいた。コントは妻の不貞に悲嘆にくれながらも仕事に追われており、収入も少なく生活に窮している惨憺たる状況にあった。 コントは静養を目的にパリを離れて郊外のモンモランシーにいた。家を空にして蒸発した夫が心配になり、カロリーヌはコントを探し出しようやく再会を果たした。彼女は興奮状態のコントに精神科での治療を受けるように薦めた。コントは精神科医エスキロールの元で入院したが、治療は捗らなかった。事態を重く見たコントの母は息子を禁治産者とする手続きを取って、カロリーヌと離縁させようとしたが失敗に終わり、結局、コントは治療せずに退院していった。母は息子夫婦を郷土のモンペリエに連れて帰り、二人にカトリックの結婚式を挙げさせた。まもなくコントはパリに戻ったものの精神状態はなかなか回復しなかった。 1827年4月、ついにコントはルーブル博物館に近い芸術の橋ポンデザールから身を投げ入水自殺を試みた。しかし、通りがかりの近衛仕官がコントを救出して、コントは一命を取り留めた。これが契機になってコントは回復を遂げていく。ただし、これ以降も、1838年、1842年、1845年に、人生の転機や重要な著作の執筆に着手するのにあたって度々精神異常を起こしている。治療費と療養中の生活費を用意してくれた父親からの借金も嵩み、仕事に復帰しなければならなかった。再び、『実証哲学講義』を再開させたが、受講生は以前よりも増えて、狭いアパートでは済まなくなり、広い間取りのアパートに転居している。
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