結婚と外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 08:33 UTC 版)
「マーガレット・ダグラス」の記事における「結婚と外交」の解説
1544年、マーガレットはスコットランド人亡命者で、後の1570年 - 1571年にスコットランドの摂政になる第4代レノックス伯マシュー・ステュアート(1516-1571)と結婚した。彼らの子供は、1545年にテンプル・ニューサン(英語版)で生まれたダーンリー卿ヘンリー・ステュアート(1545-1567)と、1574年にエリザベス・キャヴェンディッシュと結婚したチャールズ・ステュアート(1555-1576)がいた。エリザベスはサー・ウィリアム・キャヴェンディッシュとハードウィックのベス(英語版)の娘だった。 1548年6月、ラフ・ウーイング(英語版)の戦争中、マーガレットの父アンガス伯が、彼女の異母兄弟のジョージ・ダグラス(英語版)やほかの家族がダルケイス宮殿(英語版)で捕らえられたことを書き送ってきた。アンガス伯は、マーガレットとその夫レノックス伯が、捕虜としてよく扱われるよう手配できると期待していた。レノックス伯は、義父は他に助力を求めた方が良いと書いて、サマセット公エドワード・シーモアに手紙を転送した。1549年3月、マーガレットはレスル城(英語版)から父に、彼が夫に会うことを避けていると不満を書き送った。彼女は父に、"なんと記念すべきことだ!"と彼女の結婚を認めることを通して、名誉の平和を求めるよう頼んだ。 イングランド女王メアリー1世の治世中、マーガレットはウェストミンスター宮殿に部屋を持っていた。1553年11月、女王は大使シモン・ルナールに、「マーガレットが王位を継承するのに最もふさわしい」と語った。マーガレットは1558年12月のメアリー女王の葬儀の喪主を務めた。エリザベス1世の王位継承にあたり、マーガレットは、テンプル・ニューサンにある自宅がローマ・カトリック教会の陰謀の中心となっていたヨークシャーに移った。 マーガレットは、長男ダーンリー卿ヘンリーとその従姉のスコットランド女王メアリーを結婚させることに成功し、こうしてイングランドの王位継承権を一体にした。エリザベス1世はこの結婚を良しとせず、1566年にマーガレットをロンドン塔に送ったが、翌1567年に息子のダーンリー卿が殺害されると彼女は釈放された。マーガレットは義理の娘のメアリー女王を非難したが、結局、後に和解させられた。 夫のレノックス伯は孫のジェームズ6世の摂政としてスコットランド政府を担ったが、1571年に暗殺された。 1574年、マーガレットは次男チャールズとシュルーズベリー伯ジョージ・タルボットの継娘エリザベス・キャヴェンディッシュとの結婚により、再びエリザベス1世の怒りを招いた。彼女は伯爵夫人のハードウィックのベス(英語版)と異なり再びロンドン塔に送られ、1576年の息子チャールズの死後、赦免された。 マーガレットの外交は、孫のスコットランド王ジェームズ6世の未来のインランド王位継承に大きく貢献した。
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