結婚と大戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 15:02 UTC 版)
「キミコ・オカノ・ムラカミ」の記事における「結婚と大戦」の解説
1925年、21歳のキミコは妹サヨコとともに祖母カルの米寿を祝うため因島に戻り、故郷に錦を飾った。またもう一つの帰国目的として婿探しがあり、仲人から因島重井村の豪農の息子・村上勝頼(カツヨリ・ムラカミ)を紹介された。縁談はまとまり、1926年1月17日重井村で結婚式をあげた。1927年カツヨリはキミコの両親の出資で契約移民としてカナダ入りし、5年働いた後キミコとともに独立した。 世界恐慌最中の1932年、キミコとカツヨリはソルトスプリング島内に17エーカーの原野を購入した。その後9年かけて開墾し農作物栽培や養鶏を始めて農業経営を軌道に乗せた。できた農作物は非常に高品質で、エンプレス・ホテル(英語版)にも納入されていた。大恐慌の中で食うものに困っていた隣人に卵や鶏を分け与えていた。1940年頃島の学校を拡張することになった時、キミコ家族は両親とともにその費用を寄付している。1941年には家族や5人の子どもたちの世話あるいは収穫の手伝いをさせるため、バンクーバーからメイドを雇う余裕もでて、その年の秋には借金全額返済の目処が立ち、さらに土地を購入して経営規模を拡大させる計画を立てていた。両親はその数年前に仕事を引退していた。 1941年12月7日にカツヨリが盲腸の手術から退院した翌日の12月8日、太平洋戦争が勃発。同日カナダは日本に宣戦布告。島にいた77人の日系カナダ人に向けた嫌がらせは正当化された。 1942年1月、カナダ連邦政府は戦時特別法を発令し、日系カナダ人を敵性外国人とし彼らが持つ様々な権利を剥奪した。同年2月カナダ連邦政府はBC州本土の西海岸から100マイル以内を保護地区に定め、この範囲内から日本人を先祖に持つ者をすべて排除することを決定した。同年3月17日カツヨリが連行され、キミコと5人の子どもたちは同年4月22日に他の日系人とともにバンクーバーのヘイスティングスパークの家畜展示場に収容された。同年5月1日、キミコと5人の子ども達は他の日系人とともにBC州グリーンウッド(英語版)に連行された。同年7月アルバータ州マグラス(英語版)のテンサイ農場で働くことを条件にキミコの家族全員が一緒に暮らせることになった。ただそこでは農場主から家畜同然・犯罪者のように扱われ、死の危険を感じたため、長女がBC保安委員会 (the BC Security Commission) に手紙で抗議した。その通報により同年11月家族はBC州スロカン・バレー(英語版)の強制収容所送りとなり雪の降る中テントで過ごし、1943年1月BC州ローズベリー(英語版)の強制収容所送りとなった。 この間、日系カナダ人の財産はカナダ政府の管理化に置かれ、1942年6月日系カナダ人の農場を退役軍人定住局長官が自由に売買あるいは賃貸できるようになった。ソルトスプリング島にあったキミコ家族の土地建物は帰還兵へ、のちに退役軍人所有地条例の指導者へ転売された。戦前は仲良くしていた島民がその転売で利益を得ていた。その転売でキミコ家族にはたった500ドルしか得られず、さらにその金は家族の投獄料に消えたため、家族の手元には何も残らなかった。またそれとは別に父クマノスケが借金を抱えていた。 大戦後期、日系カナダ人は2つの選択肢を迫られた。一つは日本への強制帰国、もう一つはロッキー山脈の東への強制移住だった。1944年9月キミコ家族は強制移住を選択、全員でアルバータ州マグラスのテンサイ農場に戻り様々な低賃金労働をしながら、自身の家族と父クマノスケの借金返済のために働き続けた。1945年時点でも移住先へ残ることを選択している。1945年9月2日VJデーを迎えたが状況は一切変わらなかった。 1949年4月、終戦から4年後となってやっと戦時特別法による最後の規制が解除され、日系カナダ人はすべての市民的権利・移動の自由を取り戻した。この数か月後、父クマノスケが死去。
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