結婚と共同研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:19 UTC 版)
「イレーヌ・ジョリオ=キュリー」の記事における「結婚と共同研究」の解説
1925年、マリーの研究所に助手としてフレデリック・ジョリオが雇われた。これはポール・ランジュバンの推薦によるもので、当時フレデリックは25歳だった。イレーヌとフレデリックはやがて親密になり、1926年10月に結婚した。結婚の儀式はせず、2人とそれぞれの家族は証人と一緒に昼食を食べ、午後からは通常通り仕事に戻った。 イレーヌはやがて妊娠したため、診察を受けに行くと、医者から肺結核の症状が出ていると告げられた。これは母マリーがイレーヌを産むときに診断されたのと同じ病気だった。 イレーヌは1927年9月17日、長女のエレーヌを産んだ。イレーヌは後にこの出来事について、「わたしにもこんな素晴らしい体験ができるのに、もしこの世に子供を送り出していなかったとしたら、こういう体験をしなかったことを一生悔やむでしょうね」と述べている。医者はイレーヌに、肺の状態が悪いので、静養して、もう子供は産まないように、と告げたが、イレーヌは育児のかたわら仕事にも復帰し、1932年には長男のピエールを産んだ。 結婚後、イレーヌとフレデリックはジョリオ=キュリーという姓を用い、共同で研究成果を発表していった。2人の研究はフランス国内外から注目されるようになり、1933年にはソルベー会議に出席して発表した。 1934年1月、2人はアルミニウムの薄片にアルファ粒子を衝突させる実験において、アルファ粒子の発生源を取り去った後でも、引き続きガイガーカウンターが反応することを発見した。すなわち2人は初めて人工的に放射能を作りだしたことになる。2人は早速マリーに電話した。数時間後、マリーは証人役のランジュバンと共に実験室にやってきてこの現象を観察し、大いに喜んだ。 翌1935年、この研究によってイレーヌはフレデリックと共にノーベル化学賞を受賞した。しかしマリーはこの受賞を見ることなく、前年の7月に亡くなっていた。また、イレーヌ自身も1934年から、肺結核の治療のため、毎年一定期間は山で静養することを強いられるようになった。
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