結婚とデンマーク戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
「エドワード7世 (イギリス王)」の記事における「結婚とデンマーク戦争」の解説
1863年3月にウィンザー城のセント・ジョージ・チャペル(英語版)でアリックスと結婚した。二人はセント・ジェームズ宮殿近くのマールバラ邸(英語版)(1850年に女王が購入していた)で新婚生活を始めた。またノーフォークにサンドリンガム邸を購入した。夫妻は長男アルバート・ヴィクター・クリスチャン・エドワード(愛称「エディ」)、次男ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート(後の国王ジョージ5世)はじめ二男三女に恵まれた。 同年11月には岳父クリスチャンがクリスチャン9世としてデンマーク王に即位した。当時デンマークはシュレースヴィヒ公国やホルシュタイン公国と同君連合の関係にあったが、両公国のドイツ人住民の間でドイツ・ナショナリズムが高まっており、デンマーク君主を戴くことに反発が強まった。このドイツ世論を背景にプロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクはオーストリアと連携して1864年2月から第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を開始した。 両公国がプロイセンに併合されることを憂慮したバーティは、時の自由党政権の外相初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセルに国際会議を開催するよう働きかけた。バーティは強力な王立海軍で威圧すればプロイセンもオーストリアも引き下がると考えていた。イギリス首相第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルも外相ラッセル伯爵も会議外交による介入に乗り気だったが、ヴィクトリア女王や閣僚の大半が介入に反対した。女王はプロイセン皇太子に嫁いだ長女ヴィッキーと、デンマーク王女を皇太子妃に迎えたバーティの間で板挟みになっていた。結局パーマストン子爵の強い押しで4月25日からロンドン会議(英語版)が開催されるも、同会議は何の成果もないまま、6月25日までに決裂した。戦闘が再開され、デンマークは7月20日に降伏し、ホルシュタインとシュレースヴィヒに関する権利を失った。この一件以来、アリックスはプロイセンやドイツを恨むようになり、バーティも彼女に歩調を合わせて駐英プロイセン公使アルブレヒト・フォン・ベルンシュトルフ(ドイツ語版)伯爵に冷淡な態度を取るようになった。ベルンシュトルフはその件で女王に苦言を呈し、女王からバーティに注意が入っている。
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