結婚と代用教員時代とは? わかりやすく解説

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結婚と代用教員時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 11:14 UTC 版)

石川啄木」の記事における「結婚と代用教員時代」の解説

1905年5月12日堀合節子との婚姻届を一禎が盛岡市役所に出す。このとき啄木は満19歳だった。5月19日啄木東京後にする盛岡では帰郷知らせ聞いた親族節子との結婚式の場を用意していたが(5月末頃とされる)、啄木仙台10日滞在して期日戻らず、式は新郎欠いた形でおこなわれた。この理由について岩城之徳は、啄木東京曹洞宗宗務局を訪問した際に曹洞宗の「宗憲」制定伴って一禎に赦免される可能性があることを知りそれまで謹慎すべきと考えたからだとしている。しかしこの欠礼周囲友人から絶交受けた仲人役からは節子に対して結婚解消薦める助言があったが、節子は彼らに「吾はあく迄愛の永遠性なると言う事を信じ度く候」という言葉とともに結婚を貫く内容返書送っている。 6月4日盛岡帰り父母、妹ミツとの同居新婚生活を送る。20日後に市内帷子小路から加賀野転居した。一家扶養啄木が負うようになる同月岩手日報エッセイ他を「閑天地」と題して連載してわずかな収入を得る。9月5日啄木主幹編集人となり、文芸誌小天地』を出版する発行人は一禎の名義)。出版費用盛岡在住新詩社同人呉服商多く拠出した。岩野泡鳴正宗白鳥小山内薫等の作品掲載し地方文芸誌として文壇好評を得るが、創刊号のみに終わり経済的に窮することになる。 1906年明治39年2月17日函館駅長の義兄訪問し一家窮状打開相談する解決できなかった。2月25日長姉田村サダ結婚先の秋田県鹿角郡小坂にて死去する3月4日、妻と母を連れて渋民村に戻る。義父親友であった啄木自身面識があった)郡視学周旋により、母校渋民尋常小学校代用教員の職を得た4月11日拝命し、4月14日より勤務する。同じ頃、一禎に対す懲戒赦免通知があり、野辺地にいた一禎も渋民一家合流した21日には徴兵検査を受け、筋骨薄弱のため丙種合格として兵役免除される小学校では尋常2年担任として児童楽しませる授業人気集め日曜日には児童啄木宅を訪れるようになり、週末には他の学年にも自主的に教えて、「日本一代用教員」を自負しとされる6月小説書き始める。しかし秋にかけて脱稿した『面影』『雲は天才である』は発表至らず、『明星12月号に掲載された『葬列』も評価得られなかった。 12月評論林中書」を脱稿12月29日長女京子が、妻の実家生まれる。 啄木教員生活を送る傍ら、父・一禎の住職再任の話は、新住職が県宗務所の手続き不備を突く形で住職継目願書提出、これが宗務局に受理されたことで、村内檀家は再び一禎と新住職に分かれて争う形となった。この争い啄木にも波及し6月には住職再任運動の一環上京したり、小学校から追放する動き見舞われたりした。結局、一禎は住職再任断念して1907年明治40年3月5日家族無断で再び野辺地へと去った。これを契機啄木次節述べ北海道移住踏み切る

※この「結婚と代用教員時代」の解説は、「石川啄木」の解説の一部です。
「結婚と代用教員時代」を含む「石川啄木」の記事については、「石川啄木」の概要を参照ください。

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