結婚と代用教員時代
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1905年5月12日、堀合節子との婚姻届を一禎が盛岡市役所に出す。このとき啄木は満19歳だった。5月19日、啄木は東京を後にする。盛岡では帰郷の知らせを聞いた親族が節子との結婚式の場を用意していたが(5月末頃とされる)、啄木は仙台で10日も滞在して期日に戻らず、式は新郎を欠いた形でおこなわれた。この理由について岩城之徳は、啄木は東京で曹洞宗の宗務局を訪問した際に曹洞宗の「宗憲」制定に伴って一禎に赦免される可能性があることを知り、それまでは謹慎すべきと考えたからだとしている。しかしこの欠礼で周囲の友人から絶交も受けた。仲人役からは節子に対して結婚解消を薦める助言があったが、節子は彼らに「吾はあく迄愛の永遠性なると言う事を信じ度く候」という言葉とともに結婚を貫く内容の返書を送っている。 6月4日に盛岡に帰り、父母、妹ミツとの同居で新婚生活を送る。20日後に市内帷子小路から加賀野に転居した。一家の扶養も啄木が負うようになる。同月、岩手日報にエッセイ他を「閑天地」と題して連載してわずかな収入を得る。9月5日、啄木が主幹・編集人となり、文芸誌『小天地』を出版する(発行人は一禎の名義)。出版費用は盛岡在住で新詩社同人の呉服商が多くを拠出した。岩野泡鳴、正宗白鳥、小山内薫等の作品を掲載し、地方文芸誌として文壇の好評を得るが、創刊号のみに終わり、経済的に窮することになる。 1906年(明治39年)2月17日、函館駅長の義兄を訪問し、一家の窮状打開を相談するも解決できなかった。2月25日、長姉田村サダが結婚先の秋田県鹿角郡小坂にて死去する。 3月4日、妻と母を連れて渋民村に戻る。義父の親友であった(啄木自身も面識があった)郡視学の周旋により、母校の渋民尋常小学校に代用教員の職を得た。4月11日に拝命し、4月14日より勤務する。同じ頃、一禎に対する懲戒赦免の通知があり、野辺地にいた一禎も渋民の一家に合流した。21日には徴兵検査を受け、筋骨薄弱のため丙種合格として兵役が免除される。小学校では尋常2年の担任として児童を楽しませる授業で人気を集め、日曜日には児童が啄木宅を訪れるようになり、週末には他の学年にも自主的に教えて、「日本一の代用教員」を自負したとされる。 6月、小説を書き始める。しかし秋にかけて脱稿した『面影』『雲は天才である』は発表に至らず、『明星』12月号に掲載された『葬列』も評価は得られなかった。 12月、評論「林中書」を脱稿。12月29日、長女京子が、妻の実家で生まれる。 啄木が教員生活を送る傍ら、父・一禎の住職再任の話は、新住職が県宗務所の手続き不備を突く形で住職の継目願書を提出、これが宗務局に受理されたことで、村内の檀家は再び一禎と新住職に分かれて争う形となった。この争いは啄木にも波及し、6月には住職再任運動の一環で上京したり、小学校から追放する動きに見舞われたりした。結局、一禎は住職再任を断念して翌1907年(明治40年)3月5日に家族に無断で再び野辺地へと去った。これを契機に啄木は次節に述べる北海道移住に踏み切る。
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