結婚と不幸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/02 06:57 UTC 版)
「フレッド・アーチャー」の記事における「結婚と不幸」の解説
これより前、1883年1月31日にアーチャーはドーソン調教師の姪にあたるヘレン・ローズ・ドーソンと結婚した。新婚旅行で訪れたトーキーにはアーチャーの姿を一目見ようとする人々が押しかけ、さながらロイヤルウェディングのようであったという。この年は勝利数を232とし、自己新記録を更新した。しかし、翌年1月に誕生した長男が出産直後に死亡するという不幸に見舞われる。競馬においては史上最速のペースで勝利数を伸ばし、577戦で241勝という驚異的な数字を挙げる。だが241勝目を挙げた当日、妻ヘレンが長女の出産の際に23歳で死去した。このシーズン、アーチャーはこの日を限りに一切の騎乗を取り止め、3ヶ月以上の間アメリカへ旅行に赴いた。以降のアーチャーは雰囲気が一変し、周囲に明るい表情を見せることはなくなったといわれる。 1885年、アーチャーはアメリカから帰国すると、メルトン(Melton)でダービーに出た。メルトンは脚に不安を抱えており、ドーソン調教師が手がけたなかでも最も難しい馬の1頭だった。この年最高の有力馬はパラドックス(Paradox)で、既に2歳チャンピオン戦のデューハーストプレートと2000ギニーに勝っていた。 メルトンは既に何度かパラドックスに敗れており、誰が見てもパラドックスの方が強いと思われたが、パラドックスにも騎乗経験があったアーチャーは、パラドックスは先頭に立つとたじろぐ癖があることに気づいていた。アーチャーはスタートで意図的にメルトンを出遅れさせ、パラドックスを先行させた。アーチャーの読み通り、最後の直線でパラドックスは先頭に立った後、不安そうに怯んだ。残り50ヤード(約46メートル)からアーチャーはメルトンを一気に追い出し、パラドックスに並ぶと、最後の1完歩、残り1フィート(約30センチ)というところでメルトンの頭を前に押し出した。メルトンはちょうどアタマ1つ分の差でダービー優勝馬となった。この勝利は、アーチャーの最高の騎乗の一つと言われている。このレースを観戦していた詩人オスカー・ワイルドはこのダービーを、“ミルトンによる『失楽園』”(英語で“Paradaise Lost by Milton”)をもじって、“ミルトンによるパラドックスの敗北(Pradox Lost by Milton)”と伝えた。2着に惜敗したパラドックスはその後フランスでパリ大賞典に勝った。メルトンの方は秋のセントレジャーまで休養を余儀なくされたが、セントレジャーに勝って二冠馬となった。 この年、ヘレンの死去後最初のシーズンとなった1885年は、クラシック競走で4勝、さらにシーズン自己最多の246勝を挙げた。これは年間最多勝記録として長く残り、1932年にゴードン・リチャーズに破られるまで48年間保持された。
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