結婚とエドワード8世の退位
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「ウォリス・シンプソン」の記事における「結婚とエドワード8世の退位」の解説
詳細は「エドワード8世の退位」を参照 ウォリスは夫の不貞を理由に、裁判において離婚を申し立て、1936年10月27日に勝訴した。これに対してエドワード8世はウィンストン・チャーチルと相談しながら、「私は愛する女性と結婚する固い決意でいる」という真意を国民に直接訴えようと、ラジオ演説のための文書を作成する準備をしたが、ボールドウィン首相は演説の草稿の内容に激怒し、「政府の助言なしにこのような演説をすれば、立憲君主制への重大違反となる」とエドワード8世に伝えた。 チャーチルは「国王は極度の緊張下にあり、ノイローゼに近い状態」であるとボールドウィン首相に進言したが、ボールドウィン首相はそれを黙殺し、事態を沈静化させるために意を決し、1936年11月にエドワード8世の側近である個人秘書のアレグザンダー・ハーティングを呼び寄せてエドワード8世のもとに派遣し、「王とシンプソン夫人との関係については、新聞はこれ以上沈黙を守り通すことはできない段階にあり、一度これが公の問題になれば総選挙は避けられず、しかも総選挙の争点は、国王個人の問題に集中し、個人としての王の問題はさらに王位、王制そのものに対する問題に発展する恐れがあります」という文書を手渡し、王位からの退位を迫った。 この文書をきっかけにエドワード8世は退位を決意し、12月8日に側近に退位する覚悟を決めたことを伝えた。12月11日にエドワード8世がBBCのラジオ放送を通じて退位を表明した際は、「後ろで、はね橋があがっていく。あなたを何もないところへ連れてきてしまった」と語ったという。 これを機に、イギリス国内のマスコミはウォリスに対する批判を開始し、「アメリカの売春婦をやっつけろ」などとまで書き立るタブロイド紙もあったという。これに反してアメリカの『ニューズウィーク』誌は「さまざまな人種、階級、宗教からなる世界の5億人を統治する者が、アメリカ人と結婚しようとしている。その女性は個性的な魅力で、無名の一族から世界最強の王座へと登り詰めようとしている」(1936年12月12日号より)などと好意的に記しているが、イギリスではこのような見方は少なかった。普段気丈なウォリスも、この時ばかりは精神的にダメージを受けたらしく、執拗に追いかけて来るマスコミから逃れる為に、カンヌの別荘に避難した。 エドワードは12月12日深夜にポーツマスの軍港から出航しイギリスを去り、翌1937年6月3日にフランスのトゥールで2人は挙式し、その際の婚約指輪は、かつてムガル帝国皇帝が所有していた世界最大のエメラルドを半分にした片方だった。式には、ごく親しい16人の友人のみを招き、「あんな離婚歴のあるアメリカ女を王室の一員に加えるのか」などとウォリスを疎ましく思っていた王室と政府からは誰も来なかった。
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