結婚とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 06:01 UTC 版)
古関は、その年の6月に、金子に会いに豊橋まで来訪、金子は古関について福島に行き、そのまま結婚する。その秋には日本コロムビアの招きで2人は上京した。古関裕而は日本コロムビアの専属作曲家となり、2人は杉並町阿佐谷の金子の長姉・富子の家に寄寓した。2人は翌1931年(昭和6年)2月9日に入籍し、同年5月19日に結婚式を挙げた。 1931年4月、金子は帝国音楽学校声楽部本科に編入、そこでベルトラメリ能子(よしこ)に師事し、本格的に声楽の勉強を始める。当時一緒に声楽を学んでいた中に伊藤久男、葦原邦子もいた。この頃、姉の家から帝国音楽学校にほど近い世田ヶ谷町代田(だいた)に2人で転居している。 金子の声楽の才能は抜きん出ていて、その声は中山晋平にも絶賛されたという。 1931年12月の長女の出産 を機に学校を中退したが、1934年(昭和9年)に二女を出産したのちに声楽の勉強を再開した。ベルトラメリ能子の門下生の中では一番弟子で、『カヴァレリア・ルスティカーナ』(神宮寺雄三郎と共演)、『アイーダ』、『トスカ』などの舞台を踏んだ。1940年(昭和15年)、ベルトラメリ能子が鎌倉に移住するとその師のディーナ・ノタルジャコモに師事。戦前のオペラ、オペレッタにも出演したが、戦争激化でその機会も減少した。1945年(昭和20年)、東京空襲が激しくなると、2人の娘を6月に福島市に、7月に福島県信夫郡飯坂町の知人宅の二階堂魚店に疎開させた。金子は1945年7月中旬に腸チフスに罹り、8月10日まで福島市内の病院に入院した。
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