結婚とブレイク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 02:47 UTC 版)
「エドワード・ホッパー」の記事における「結婚とブレイク」の解説
1923年に、ホッパーの緩やかな上昇はついに大きな実を結んだ。マサチューセッツ州グロスターでの夏の絵画旅行の間に、ロバート・ヘンライの元教え子だったジョゼフィーン・ニビソンに再会した。ホッパーは背が高く、内気で、内省的かつ保守的であったのに対し、ジョゼフィーンは背が低く、オープンで、社交的で寛大な性格だった。全く正反対の二人は一年後に結婚した。彼女はホッパーのキャリアとインタビューを管理し、主要なモデルを務め、生涯の伴侶となった。 ジョゼフィーンの助けを借りて、ホッパーのグロスターの水彩画6点が1923年にブルックリン美術館の展示会に出品された。そのうちの1つである[The Mansard Roof]は永久コレクションとして100ドルでブルックリン美術館に購入された。批評家たちは「何て活力、迫力、そして率直さだ!最も家庭的な主題で何ができるかを刮目せよ」と一様に彼の作品を絶賛した。ホッパーは翌年の個展で出品したすべての水彩画を売ることができ、遂に商業イラストを辞めることにした。 41歳で、ホッパーは更なる名声を得た。しかし自分のキャリアについて苦々しさを心に抱き続け、その後は人前に出ることや受賞を断った。安定した売り上げによって経済的な安定を得た後はシンプルで安定した生活を送り、40年以上に渡って独自のスタイルでアートを生み出し続けた。 [Two on the Aisle(1927年)]は自己最高額の1,500ドルで購入された。ホッパーは自動車を購入することができ、ニューイングランドへの絵画旅行に使用した。1929年に彼は[Chop Suey] と [Railroad Sunset]を製作した。翌年、パトロンであるスティーブン・クラークは、[House by the Rail Road(1925)]を同館初の油絵コレクションとしてニューヨーク近代美術館に寄贈した。 1930年頃には最後の自画像を油絵で描いた。ジョゼフィーンは彼の多くの絵にポーズをとっていたが、正式な油絵の肖像画として描かれたのは[Jo Painting(1936)]だけである。 大恐慌の間、ホッパーは他の多くの芸術家よりもましな境遇だった。1931年、ホイットニー美術館やメトロポリタン美術館などの主要な美術館が彼の作品に数千ドルを支払い、ホッパーの名声は急上昇した。その年、ホッパーは水彩画13点を含む30点の絵画を販売した。翌年、最初のホイットニー・ビエンナーレに参加し、その後生涯を通じて毎年展示し続けた。1933年に、ニューヨーク近代美術館は初めてホッパーの大規模な回顧展を開催した。 1930年、ホッパー夫妻はケープコッドのサウストルロにコテージを借りた。毎年夏をそこで過ごし、1934年に夏用の家を建てた。ホッパーが絵の題材を探す必要があるときは、夫妻はそこから他の地域へ車で旅行することもあった。1937年と1938年の夏、夫妻はホッパーがホワイトリバーの連作の水彩画を描いたバーモント州サウスロイヤルトンのワゴンホイール・ファームに長期滞在した。これらの風景はホッパーの成熟した作品の中では典型的ではなく、ほとんどが「純粋な」風景であり、建築物や人物が見当たらない。[Branch of the White River (1938)]は現在ボストン美術館にあり、ホッパーのバーモントの風景の中で最もよく知られる。 1930年代から1940年代初頭にかけては非常に精力的に活動し、[New York Movie (1939)]、[Girlie Show (1941)]、[ナイト・ホークス(1942)]、[ホテル・ロビー(1943)]、[Morning in City(1944)]など、数多くの重要な作品を生み出している。しかし1940年代後半は比較的無活動の期間を過ごし、「もっと描きたい。読書や映画はもう飽き飽きだ。」と言った。その後の20年間、ホッパーの健康状態は悪化し、前立腺手術やその他いくつかの健康的問題を抱えた。しかし、1950年代から1960年代初頭に、[First Row Orchestra(1951)][Morning Sun(1952)] 、[Hotel by a Railroad(1952)]、 [Intermission(1963)]などを含む主要な作品を製作した。
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