語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 05:45 UTC 版)
Tithonissche 階という用語は、ポーランドとオーストリアの間に分布する一連の露頭に基づき、古生物学者アルバート・オッペルが1865年に初めて導入した。通常地質時代名はマーストリヒチアン(マーストリヒト)やチバニアン(千葉県)というようにその時代を定義する地域の名前が付けられるが、Tithonissche の語源はギリシア神話の神ティートーノスにあった。 1873年に、ドイツの古生物学者メルヒオール・ノイマイル(英語版)は 1842年にフランスの博物学者アルシド・ドルビニが定義したキンメリッジアン/チトニアン境界 にドイツにおけるキンメリッジアン/チトニアン境界に近いことを確かめた。 国や地域によって階の理解が異なっていたため、1990年に国際層序委員会(英語版)と国際地質科学連合がチトニアンという用語の使用を決定した。Tithonique という用語は廃止された。 1881年にロシアの地質学者セルゲイ・N・ニキチンはヴォルギアン (Volgien) という用語を発表しており、これはチトニアンにほぼ対応するとされる。
※この「語源と歴史」の解説は、「チトニアン」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「チトニアン」の記事については、「チトニアン」の概要を参照ください。
語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 15:32 UTC 版)
オック語のプロヴァンス方言では、Pistouは「叩いて粉々にする」という意味である。 このソースは、伝統的にニンニク、バジル、松の実、ペコリーノ・サルド、オリーブ油を乳鉢で混ぜて作るリグーリア州のペスト・ジェノヴェーゼに由来している。これらの違いは、ピストゥには松の実が入っていないことである。
※この「語源と歴史」の解説は、「ピストゥ」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「ピストゥ」の記事については、「ピストゥ」の概要を参照ください。
語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 21:08 UTC 版)
「外人」という語は、13世紀の平家物語に書かれている。 外人もなき所に兵具をとゝのへAssembling arms where there are no gaijin ここでいう外人とは、部外者や潜在的な敵を指す。別の初期の参考文献である二条良基の連理秘抄(c. 1349)では、友人ではなく、見知らぬ人である日本人を指すために使われている。能の演目鞍馬天狗では、旅僧の姿に召使いが反対する場面がある。 源平両家の童形たちのおのおのござ候ふに、かやうの外人は然るべからず候A gaijin doesn't belong here, where children from the Genji and Heike families are playing. ここでいう外人とは、部外者や見知らぬ人も意味する。 「外国人」という語は、外国と人で構成されている。早くは1235年から用例が見られるが、1838年に再出現するまで大部分は非拡張的だった。明治政府(1868–1912)はこの語をさらに普及させ、異人、異国人、異邦人に取って代わるようになった。大日本帝国が朝鮮と台湾に広がったとき、内国人という用語は、他の帝国領の国民を指すようになった[要出典]。第二次世界大戦後、他の用語は使用されなくなったが、外国人は非日本人を指す公式の語のままだった。現代の「外人」は「外国人」の短縮語だと考える人もいる。
※この「語源と歴史」の解説は、「外人」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「外人」の記事については、「外人」の概要を参照ください。
語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 16:18 UTC 版)
Niagara の語源についてははっきりしておらず、諸説ある。なお、英語では i を二重母音で読むために「ナイアガラ」と発音されるが、フランス語等では「ニヤガラ」と発音される。 イロコイ語の研究者 B. トリガーによれば、この土地に住んでいた先住民の家名に由来するという。17世紀後半フランスの、この地域を記した地図には、彼らが"Niagagarega"と呼ばれていたと記述されている。また地名学者の G. スチュワートによれば、"Ongniaahra"(「二つに分かれた土地の端」の意)というイロコイ族の町の名に由来するという。 一方、地理学者のヘンリー・スクールクラフトは次のように記している。 「ナイアガラの滝。これはモホーク語である。カー夫人によれば、「首」を意味する。この語は最初は、エリー湖とオンタリオ湖の間の連水陸路、または地峡(neck of land)を指していた。エリオット氏の語彙集(11章)を参照すれば、人間の首が――この実際の語彙集に従えば「彼の首」だが―― "onyara" だということが分かるだろう。1820年の春に、レッド・ジャケットがこのナイアガラという語を、O-ne-au-ga-rah とでも書くかのように発音した」 他に、しばしば観光案内などでは「雷鳴の轟く水」(thunder of the water, thundering Waters 等)を意味すると説明されることがあるが、これには学術的な根拠はないようである。 ヨーロッパ人で滝を最初に目撃したと言われる人々は幾人かおり、1604年、フランス人探検家サミュエル・ド・シャンプランの探検団一向が探検し、彼のもとに滝についての報告があったことが彼の日記に残されている。1700年代初期、スウェーデンの学者ペール・カルムがこの地域を探検し、このときの体験を記録に残している。1677年、カルムより早くにフランスの宣教師ルイ・エヌパンが、フランス人探検家ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールとともに訪れたことは非常によく知られている。しかし、フランスのイエズス会宣教師ポール・ラグノーがワイアンドット族(ヒューロン族)インディアンに布教活動をしている際、エヌパンよりおよそ35年前に訪れたことを示す確証があり、そのほかにもイエズス会宣教師ジャン・ドゥ・ブレハブが訪れたのではないかとされている。 18世紀にかけて観光が盛んになり、18世紀中頃にはこの地域の主要産業となる。19世紀初期、ナポレオン・ボナパルトの弟ジェローム・ボナパルトが花嫁と一緒に訪れている。ナイアガラ川を行き来する需要が増え始めたため、1848年に歩道橋ができ、チャールズ・エレット・ナイアガラ・フォールズ吊り橋、1855年にはジョン・アウグストゥス・ローブリン・ナイアガラ・フォールズ吊り橋となる。 南北戦争後、ニューヨーク・セントラル鉄道は、ナイアガラの滝を余暇と新婚旅行先として力を入れるようになる。鉄道の交通量が増えた1886年、木材と石材でできた橋が鉄橋へと置き換わり、現在も鉄道がナイアガラ川をまたぐ橋となっている。滝の近くにできた最初の鉄橋は1897年に完成し、今日ではワールプール・ラピッズ・ブリッジとして知られ、車輌、列車、歩行者が行き来できる。1941年、滝近くに3番目の橋「レインボー・ブリッジ」が建設され、車輌と歩行者がアメリカ、カナダ間の国境を行き来できる。 第一次世界大戦後、観光業は再びブームを迎え、自動車が普及したことにより滝へのアクセスがより容易になった。20世紀において、滝の歴史は水力発電の活用と自然景観の保護と開発に大別される。 2020年、2019新型コロナウイルスの感染拡大により、3月17日からオンタリオ州に非常事態宣言が、3月20日からはニューヨーク州に外出禁止令が出され、ナイアガラ観光は停止状態となった。3月22日には、休業状態になった滝周辺のホテルやカジノが、建物にハート型のライトアップを行い、SARSコロナウイルス2に立ち向かうために連帯を呼び掛けた。
※この「語源と歴史」の解説は、「ナイアガラの滝」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「ナイアガラの滝」の記事については、「ナイアガラの滝」の概要を参照ください。
語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 13:59 UTC 版)
英語のwaferの語源は、中世のオランダ・ベルギー・北部ドイツなどにおいて使用された中低ドイツ語の蜂の巣を意味する「wâfel」からきており、中世英語のWafreとして確認できる。ゴーフル、ワッフルとも語源は一緒であり、厚いものも薄いものも含んだ蜂の巣状の凹凸のある焼き菓子を指している。 14世紀にはイギリスでウエハースが街中で売られていた。 英語のwaffleは17世紀にアメリカにオランダのワッフルの製法とともに伝わった言葉である。
※この「語源と歴史」の解説は、「ウエハース」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「ウエハース」の記事については、「ウエハース」の概要を参照ください。
語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 15:23 UTC 版)
日本語のギプスの語源は、Gips(オランダ語・石膏の意)である。日本でしばしば発音されてしまう「ギブス」は誤り。 19世紀の半ば1852年のイギリス・オランダ戦争においてオランダの軍医であったアントニウス・マタイセンが戦場で骨折や銃創を負った兵士を早期に搬送するため、患部を石膏を含んだ巻軸帯で固めたのが始まりとされている。元々はメソポタミア文明時代において患部を収めた木枠に石膏泥を流し込み固める方法が行なわれていたものを改良し、処置の迅速化を図ったものである。 日本においては、尾澤豊太郞がギプスの製造に初めて成功した。その後は看護婦らが巻軸包帯に石膏をまぶして作成する家内手工業的なものであったが、1955年に国産初の石膏ギプスを東京衛材研究所(現アルケア株式会社)が市販開始し普及した。現在では医療現場からの要求により技術開発が進み、ガラス繊維製の基布に水硬性ポリウレタン樹脂を浸含させたガラス繊維キャスティングテープが主流となっており、石膏ギプスは義肢装具の採型用として使われる程度となりつつある。 変わった使い方としては映画などの特殊メイク作成時に、顔や体の型を取るのにも用いられる。(ジョージ・シーガルは、この方法で石膏彫刻を作った。) 利き手などの矯正のために親が子供に対してギプス装着を強制する使用例もあったが、現在このようなことをすると虐待とされる。
※この「語源と歴史」の解説は、「ギプス」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「ギプス」の記事については、「ギプス」の概要を参照ください。
語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 03:53 UTC 版)
リバタリアンという用語が使用された最初の記録は1789年であり、イギリス人のウィリアム・ベルシャム(英語版)が形而上学の文脈でリバタリアニズムについて記したときだった。 フランスの無政府共産主義者でニューヨークに移り住んだジョゼフ・デジャック(英語版)は、1858年から1861年にかけて定期刊行した「ル・リベルテール(英語版)」の中でリバタリアンという用語を用いた。この時期ではリバタリアンとアナキズムは同義語のような立ち位置だった。 アメリカでは1870年代後半から1880年代初頭にかけて、個人主義的無政府主義のベンジャミン・タッカー(英語版)によってリバタリアンが普及した。他にも19世紀のリバタリアン思想家には、奴隷制度廃止運動に関わったライサンダー・スプーナー、フリーバンキングの推進者だったウィリアム・バチェルダー・グリーン(英語版)などがいた。また、リベラリズムの同義語としてのリバタリアニズムは1955年にディーン・ラッセルによって大衆に広まった。その後、古典的自由主義の信念を持つ者が増加し、そのような人たちが自らをリバタリアンと表現するようになり、その意味での用語を広めたのは1960年代に活躍したマレー・ロスバードだった。1970年代にはロバート・ノージックがアカデミックな世界や哲学分野でアメリカの国外へこの用語を広めるのに貢献した 。 「en:Libertarianism in the United States」も参照
※この「語源と歴史」の解説は、「リバタリアニズム」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「リバタリアニズム」の記事については、「リバタリアニズム」の概要を参照ください。
語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:40 UTC 版)
新国家アメリカ合衆国の元首にして行政府の長である「民によって選出された王」の呼称は、合衆国憲法によって「アメリカ合衆国大統領 (President of the United States)」と定められていたが、初代大統領のジョージ・ワシントン以来、大統領の伴侶である大統領夫人の呼称は長らく存在しなかった。そのためワシントン夫人のマーサは「レディー・ワシントン (Lady Washington)」、次のジョン・アダムズ大統領夫人のアビゲイルは「ミセス・プレジデント (Mrs. President)」または「ハー・マジェスティー (Her Majesty = 陛下)」と呼ばれ、初期の大統領夫人の中には「プレジデントレス (Presidentress)」などという造語で呼ばれる者も多かったなど、用語に著しく一貫性が欠けていた。 「ファースト・レディ (first lady)」という表現の初出は1849年で、第3代トマス・ジェファーソン大統領と第4代ジェームズ・マディソン大統領の2代16年に亘ってホワイトハウスのホステス役を務めたドリー・マディソン(下記『逸話』の節を参照)が死去した際、その葬儀の席上時のザカリー・テイラー大統領が読み上げた弔辞の中に She will never be forgotten, because she was truly our first lady for a half-century. 彼女のことは永遠に忘れ去られないことでしょう。なぜなら半世紀の長きに亘って、彼女はまさに我々にとって第一級の女性であったからであります。 とあったのがそれである。 また、1863年には、イギリスの『タイムズ』誌記者ウィリアム・ハワード・ラッセル(英語版)が、南北戦争の戦争特派員として滞米していた時に見聞したことを綴った手記を出版しているが、その中にエイブラハム・リンカーン大統領夫人のメアリーに関して流布していた風説を紹介したくだりがあり、そこでマーサのことを次のように言い表している。 ...concerning the first lady in the land この地における第一の女性に関する... これが、first lady という語が現大統領夫人に使われた初例である。 「ファーストレディ (first lady)」という語が大統領夫人の呼称として定着したのは、実に20世紀初頭になってからのことであった。劇作家チャールズ・フレデリック・ナイドリンガー/ナードリンジャー (Charles Frederic Nirdoinger) は、ドリー・マディソンを題材とした喜劇『ザ・ファースト・レディ・イン・ザ・ランド(原題:The first lady in the land)』を1911年[信頼性要検証]に著したが、これが大ヒットして新聞の劇評などで取り上げられたため、以後広く一般にも知れ渡るようになった。 第一次世界大戦後、首都ワシントンD.C.で外国首脳夫妻を招いての公式行事が行われることが多くなると、ホワイトハウスでは大統領夫人との釣り合い上、外国首脳夫人に対してもファーストレディの呼称を用いるようになり、ここからこの語が世界に広まっていった。今日では新聞紙面やニュースの中で使われる用語のみならず、大統領府や首相府が公式・非公式の席上でこれを使用している国も少なくない。 なお、"first lady"(the を冠するのが通例)という英語表現は、英語圏以外の国でも翻訳せずにそのままの形で使われることが多く、国際語的な一面をもった表現ともなっている。
※この「語源と歴史」の解説は、「ファーストレディ」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「ファーストレディ」の記事については、「ファーストレディ」の概要を参照ください。
語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 08:28 UTC 版)
中国人(特に漢民族)を意味する「ちゃんころ」という言葉は、日本帝国が中国に積極的に出兵する明治時代から頻繁に使われるようになった。いわゆる「兵隊シナ語」のひとつである。日本帝国の政治家と日本軍が清国に訪ねた際、満州民族の支配下にいた漢族が満州民族の前に跪く、頭を下げて御辞儀をしながら漢族たちを奴才と呼んでいたことを日本軍が見て中国人(漢民族)を清国奴(ちゃんころ)と呼んでいたのが語源である。中国服のことを「チャン服」、中華料理のことを「チャン料」などと形容詞的に略して用いることもあった。戦中に日本軍が征服した中国領土にいる中国人(漢民族)や敵に対して用いる俗語として定着した。
※この「語源と歴史」の解説は、「ちゃんころ」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「ちゃんころ」の記事については、「ちゃんころ」の概要を参照ください。
語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/27 16:12 UTC 版)
歴史的には、アメリカの免疫学者 William Clouser Boyd によって、1945年に「レクチン」は命名された。 マメ科植物などが血液を凝集する成分を持つことは既に当時から知られていたが(1888年にHermann Stilmarkがトウゴマによる血液の凝集を発見していた)、しかしBoyd以前は血液型に依存しないと思われていた。Boydの研究により、血液型に依存する事が分かったので、ラテン語の「選び出す」 legere にちなみ、レクチンと名づけられた。Boydはスーパーでリママメを買ってきて実験したという。そして、Boydの実験のリママメのレクチンが、A型赤血球を凝集したという。 その後の研究などで、糖によってレクチンの凝集が阻止される事が分かった。また、血液の糖鎖などの構造の解明のヒントになった。 なお、1888年にHermann Stilmarkの発見したトウゴマの毒性レクチンはリシン(ricin)である。アミノ酸のリシン(lysine)と別物。 これらレクチン研究の当初は、植物のレクチンが当時の研究者の関心事だった。しかし現代では動物にもレクチンは存在する事が分かっている。
※この「語源と歴史」の解説は、「レクチン」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「レクチン」の記事については、「レクチン」の概要を参照ください。
語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/29 18:55 UTC 版)
コキスはスリランカの伝統料理と考えられているが、オランダに統治されていた17世紀中頃から18世紀末にかけてオランダから入ってきたと考えられている。その名前は、オランダ語でクッキーやビスケットを意味するKoekjeに由来する。スウェーデンのロゼットクッキーやペルシャのバーミエは、コキスによく似ている。
※この「語源と歴史」の解説は、「コキス」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「コキス」の記事については、「コキス」の概要を参照ください。
語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/08 21:06 UTC 版)
オースチナイトは1935年、アメリカ合衆国ユタ州トゥーイル郡のディープクリーク山地(英語版)中にある「ゴールドヒル(英語版)鉱山」においてロイド・W・ステイプルズにより初発見され、スタンフォード大学の鉱物学者、オースティン・フリント・ロジャース (1877–1957) に因み命名された。
※この「語源と歴史」の解説は、「オースチナイト」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「オースチナイト」の記事については、「オースチナイト」の概要を参照ください。
語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 04:02 UTC 版)
古代ローマでは、初代ロームルス王以来、多くの一族を抱える有力者をもって「貴族(パトリキ)」として終身の「元老院」を構成させ、王の「助言機関」とした。これが最初の「元老院」である。ラテン語で「老いた者」を意味する senex が語源で、ここから派生した senatus「年長者」という語が「年長者会議」という意味で使われるようになった。 前509年、王制が打倒されたあとの共和政ローマでは、元老院が実質的な統治機関となった。 ローマの元老院は、紀元前27年の帝政移行後も存続したが、次第に権限が縮小され、正当な皇帝を承認する機関へ、そして、皇帝の諮問機関へと、段階的に性格を変えていった。ローマの元老院は7世紀ごろに姿を消したが、ローマの元老院を模して設けられたコンスタンティノポリスの元老院は1453年の東ローマ帝国滅亡まで存続した。 西欧が経験した唯一の共和政体が共和政ローマであり、貴族の権威によらない合議制の統治機関として西欧が知る唯一の実例がローマの元老院だったことから、西欧世界において senatus が各国語に変化した語(下記「各国の例」を参照)が「合議制による国家の意思決定機関」、または「高い権威を持った合議制の国家機関」を表す普通名詞と化した。 その後、中世のポーランド王国(ポーランド・リトアニア共和国)、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、などに共和政体ないし貴族共和政体が成立すると、その統治機関にも「元老院」の名称が用いられた。ヴェネツィアやフィレンツェの機関は「参事会」と訳されることが多く、ポーランドの機関は「元老院」と訳されるかそのまま「セナト」と呼ばれる。また、東ローマ帝国の皇帝権を継承する形で成立したロマノフ朝のロシア帝国では、ピョートル1世が諮問機関として設置した機関に「元老院」の名称を用いている。そして、近世になり、体系的な国家構造と将来展望をもつ初の近代的共和国としてアメリカ合衆国が独立すると、その議会に旧・宗主国イギリスの両院制を取り入れながらも、その「貴族院・庶民院」という名称を改めて「元老院・代議院」として現在に至っている。 この結果、現在でも古代ローマを源泉とする西欧文明を継承する国々、中でも英・仏・西・米の旧・宗主国や、その旧・植民地に20世紀になってから独立した国のほとんどが、上院の正式名称に「元老院」を用いるに至っている。 なお、日本でも江戸時代まで、組織の幹部の肩書きに「おとな」「年寄」といった年長者を意味する語を当てることが多かった。幕府の政策決定者を「老中」や「大老」と呼んだり、大相撲の親方のことを「年寄」と呼ぶといった例がある。明治維新後の太政官制では、1875年に設置された立法諮問機関のことを「元老院」と呼んでいた。
※この「語源と歴史」の解説は、「元老院」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「元老院」の記事については、「元老院」の概要を参照ください。
語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 02:51 UTC 版)
属名のOriganumはギリシャ語のoros(山)とganos(喜び)の合成語で「山の喜び」の意がある。 古代ギリシャから栽培されていた。古代ギリシャ、ローマでは幸せを象徴するハーブとして、結婚する若い二人が頭にこの花冠をのせる習慣があった。また、故人の冥福を祈って、死装束の香りとしてお墓にも植えられた。中世、ローマ人がイギリスに伝えると、ホップが使われる前までは、このハーブがビールの苦みに使用された。この香りを吸い込むと健康に良いとされ、乾燥したハーブが幅広く売られていた。
※この「語源と歴史」の解説は、「マジョラム」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「マジョラム」の記事については、「マジョラム」の概要を参照ください。
語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/11 15:21 UTC 版)
「サワッディー」という語は人造語であり、自然発生した挨拶ではない。「サワッディー」の語が誕生する以前は「パイナイマー?」(どこへ行ってきた?)や、華僑の影響でしゃべり始められたと考えられる「キンカーオルーヤン?」(ご飯もう食べた?)「サバーイディーマイ?」(お元気ですか?)などの語が出会い頭の挨拶代わりに使われていたとされている。 1931年にラジオ放送が開始された際に、当時チュラーロンコーン大学文学部の教員であったプラ・ウッパキットシラパサーン(本名、ニム・カーンチャナチーワ)によりラジオの放送終了時の挨拶として考案した。語源は英単語のswastikaの語源ともなったサンスクリット語のsvastikaaが活用した形であるsvastiのタイ訛りsawat(di) (สวัสดิ์ サワッ)の最後の黙字のdiを純タイ語であるdii(ดี ディー「良い」)に変えた物。このため「サワッディー」とは「良い吉祥」という意味になる。 元々は、ラジオのために作られたメディア用語であったが、これがプラ・ウッパキットシラパサーンの属するチュラーロンコーン大学文学部の女生徒の間で友人と出会った際や分かれた際の合い言葉のように使われだし、いわゆる学生語となった。その後、庶民などにも浸透していき現在の地位を確立することになる。後の1950年、事実上の言語統制機関であるタイ学士院は辞書編纂会議において「タイ語には元々挨拶語はない。しかし、もし適切な語があるとすれば『サワッディー』以外考えられない」という旨の議論があり、名実ともに挨拶語の地位を確立した。
※この「語源と歴史」の解説は、「サワッディー」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「サワッディー」の記事については、「サワッディー」の概要を参照ください。
語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 10:33 UTC 版)
この言葉は「傾く、衰える」、「横に曲がる」を意味するアラビア語の語根ḥ-n-fに由来し、同じ意味のシリア語の語根に由来する。現代アラビア語筆記のアラビア語-英語辞書では、「真の信者、正統派、自分を取り巻く偽の信条を軽蔑し、真の宗教を公言する者」と定義されている。 フランシス・エドワード・ピーターズによれば、クルアーンの3章67節(3:67)では「直立した人」と訳され、クルアーン以外では「正しい状態や傾向に傾くこと」と訳されている。W・モンゴメリー・ワットによれば、この言葉はユダヤ人やキリスト教徒が以前から「異教徒」に対して使っていたようで、シリアやアラブの古いヘレニズム化された宗教の信者に適用され、初期のイスラム教徒を愚弄するために使われていたという 。 マイケル・クックは「その正確な意味は不明」としながらも、クルアーンでは「原始的な一神教を示唆する文脈で使われており、(現代の)ユダヤ教やキリスト教と対比させる傾向がある」と述べている。クルアーンの中でハニーフは「アブラハムと強く結び付けられているが、モーゼやイエスとは決して結び付けられていない」 。 オックスフォード・イスラミック・スタディーズのオンライン版では、ハニーフを「アブラハムのモデルに例示されているように、自分のすべての事柄において完全に直立している者」と定義しており、イスラームの到来以前には「この用語は……一神教を受け入れたが、ユダヤ人やキリスト教徒のコミュニティには参加しなかった敬虔な人々を示すために使われていた」としている。 ハニフィーヤ(Hanīfiyyah)を「イブラヒムの法」と訳し、動詞 taḥannafa を「(偶像崇拝から)背を向ける」と訳す者もいる。またハニーフは「イブラヒムの宗教、ハニーフ、ムスリム」に従っていたと主張する者もいる。ワットはムスリム(意味:神に委ねる)の分詞形から生じたイスラムという動詞が、宗教を識別する記述として生まれたのは、メディナ時代後期になってからではないかと説いている。
※この「語源と歴史」の解説は、「ハニーフ」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「ハニーフ」の記事については、「ハニーフ」の概要を参照ください。
語源と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 05:24 UTC 版)
「チャトラン」はおそらくサンスクリット語の「catur-aṅga」あるいはペルシア語の「šaṭranj」に由来する。「オク」(Ouk、Ok)は将棋そのものを指し、また王手をかけた時にも発声される。 この遊戯の正確な起源は、その他の将棋類と同様に、よく分かっていない。 オクの歴史的証拠には以下の事柄がある。 12世紀から13世紀のアンコール・ワット、プリヤ・カーン、バイヨンにレリーフが存在する。レリーフでは、2人の人物がいくつかの駒が置かれた机をはさんでいる。この場面は将棋を強く連想させる。しかしながら、盤上には5つまたは7つの駒しかなく、馬の駒もない。これは、単に様式化の結果であるか、ルールが異なっていたことを示しているか、あるいは全く異なる遊戯であるかのいずれかであろう。 13世紀に書かれたマルコ・ポーロの『東方見聞録』のいくつかの版では、この地域において黒檀が使われていたことが言及されている。黒檀からは黒色の駒が作られる。 東南アジア(より正確にはシャム)における信頼できる最初の将棋類に関する記述は1687年にシモン・ド・ラ・ルベールによってなされた。彼は現地人が中国式の象棋(シャンチー)と「私達の」象棋を指していたと記した。
※この「語源と歴史」の解説は、「オク・チャトラン」の解説の一部です。
「語源と歴史」を含む「オク・チャトラン」の記事については、「オク・チャトラン」の概要を参照ください。
- 語源と歴史のページへのリンク