語源と歴史とは? わかりやすく解説

語源と歴史

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チトニアン」の記事における「語源と歴史」の解説

Tithonissche 階という用語は、ポーランドオーストリアの間に分布する一連の露頭に基づき古生物学者アルバート・オッペルが1865年初め導入した通常地質時代名はマーストリヒチアンマーストリヒト)やチバニアン千葉県)というようにその時代を定義する地域の名前が付けられるが、Tithonissche の語源ギリシア神話の神ティートーノスにあった1873年に、ドイツ古生物学者メルヒオール・ノイマイル(英語版)は 1842年フランス博物学者アルシド・ドルビニ定義したキンメリッジアン/チトニアン境界ドイツにおけるキンメリッジアン/チトニアン境界に近いことを確かめた。 国や地域によって階の理解異なっていたため、1990年国際層序委員会英語版)と国際地質科学連合チトニアンという用語の使用決定した。Tithonique という用語は廃止された。 1881年ロシア地質学者セルゲイ・N・ニキチンはヴォルギアン (Volgien) という用語を発表しており、これはチトニアンにほぼ対応するとされる

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ピストゥ」の記事における「語源と歴史」の解説

オック語プロヴァンス方言では、Pistouは「叩いて粉々にする」という意味である。 このソースは、伝統的にニンニクバジル松の実ペコリーノ・サルドオリーブ油乳鉢混ぜて作るリグーリア州ペスト・ジェノヴェーゼ由来している。これらの違いは、ピストゥには松の実入っていないことである。

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外人」の記事における「語源と歴史」の解説

外人」という語は、13世紀平家物語書かれている外人もなき所に兵具をとゝのへAssembling arms where there are no gaijin ここでいう外人とは、部外者潜在的な敵を指す。別の初期の参考文献である二条良基連理秘抄(c.1349)では、友人ではなく見知らぬ人ある日本人を指すために使われている。能の演目鞍馬天狗では、旅僧の姿に召使い反対する場面がある。 源平両家童形たちのおのおのござ候ふに、かやうの外人然るべからず候A gaijin doesn't belong here, where children from the Genji and Heike families are playing. ここでいう外人とは、部外者見知らぬ人意味する。 「外国人」という語は、外国と人で構成されている。早く1235年から用例見られるが、1838年再出現するまで大部分は非拡張的だった。明治政府(1868–1912)はこの語をさらに普及させ、異人異国人異邦人に取って代わるようになった大日本帝国朝鮮台湾広がったとき、内国人という用語は、他の帝国領国民を指すようになった[要出典]。第二次世界大戦後他の用語使用されなくなったが、外国人は非日本人を指す公式の語のままだった。現代の「外人」は「外国人」の短縮語だと考える人もいる。

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ナイアガラの滝」の記事における「語源と歴史」の解説

Niagara語源についてはっきりしておらず、諸説ある。なお、英語では i を二重母音で読むために「ナイアガラ」と発音されるが、フランス語等では「ニヤガラ」と発音されるイロコイ語研究者 B. トリガーによれば、この土地住んでいた先住民家名由来するという。17世紀後半フランスの、この地域記した地図には、彼らが"Niagagarega"と呼ばれていたと記述されている。また地名学者G. スチュワートによれば、"Ongniaahra"(「二つ分かれた土地の端」の意)というイロコイ族の町の名に由来するという。 一方地理学者ヘンリー・スクールクラフト次のように記している。 「ナイアガラの滝。これはモホーク語である。カー夫人によれば、「首」を意味する。この語は最初は、エリー湖オンタリオ湖の間の連水陸路、または地峡(neck of land)を指していた。エリオット氏の語彙集(11章)を参照すれば人間の首が――この実際語彙集に従えば彼の首」だが―― "onyara" だということ分かるだろう。1820年春にレッド・ジャケットがこのナイアガラという語を、O-ne-au-ga-rah とでも書くかのように発音した」 他に、しばしば観光案内などでは「雷鳴轟く」(thunder of the water, thundering Waters 等)を意味する説明されることがあるが、これには学術的な根拠ないようである。 ヨーロッパ人で滝を最初に目撃したと言われる人々幾人かおり、1604年フランス人探検家サミュエル・ド・シャンプラン探検一向探検し彼のもとに滝についての報告があったことが彼の日記残されている。1700年代初期スウェーデン学者ペール・カルムがこの地域探検し、このときの体験記録残している。1677年カルムより早くフランス宣教師ルイ・エヌパンが、フランス人探検家ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールとともに訪れたことは非常によく知られている。しかし、フランスイエズス会宣教師ポール・ラグノーがワイアンドット族ヒューロン族インディアン布教活動をしている際、エヌパンよりおよそ35年前に訪れたことを示す確証があり、そのほかにイエズス会宣教師ジャン・ドゥ・ブレハブが訪れたではないかとされている。 18世紀にかけて観光盛んになり、18世紀中頃にはこの地域主要産業となる。19世紀初期ナポレオン・ボナパルトの弟ジェローム・ボナパルト花嫁一緒に訪れている。ナイアガラ川行き来する需要増え始めたため、1848年歩道橋ができ、チャールズ・エレット・ナイアガラ・フォールズ吊り橋1855年にはジョン・アウグストゥス・ローブリン・ナイアガラ・フォールズ吊り橋となる。 南北戦争後ニューヨーク・セントラル鉄道は、ナイアガラの滝余暇新婚旅行先として力を入れるようになる鉄道交通量増えた1886年木材石材でできた鉄橋へと置き換わり、現在も鉄道ナイアガラ川をまたぐとなっている。滝の近くにできた最初鉄橋1897年完成し今日ではワールプール・ラピッズ・ブリッジとして知られ車輌列車歩行者が行き来できる。1941年、滝近く3番目のレインボー・ブリッジ」が建設され車輌歩行者アメリカ、カナダ間の国境行き来できる第一次世界大戦後観光業は再びブーム迎え自動車普及したことにより滝へのアクセスがより容易になった。20世紀において、滝の歴史水力発電活用自然景観保護開発大別される2020年2019新型コロナウイルス感染拡大により、3月17日からオンタリオ州非常事態宣言が、3月20日からはニューヨーク州外出禁止令出されナイアガラ観光停止態となった。3月22日には、休業状態になった周辺のホテルカジノが、建物ハート型のライトアップ行いSARSコロナウイルス2立ち向かうために連帯呼び掛けた

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ウエハース」の記事における「語源と歴史」の解説

英語のwafer語源は、中世オランダ・ベルギー北部ドイツなどにおいて使用され中低ドイツ語蜂の巣意味する「wâfel」からきており、中世英語のWafreとして確認できるゴーフルワッフルとも語源一緒であり、厚いものも薄いものも含んだ蜂の巣状凹凸のある焼き菓子指している。 14世紀にはイギリスウエハース街中売られていた。 英語のwaffle17世紀アメリカオランダワッフル製法とともに伝わった言葉である。

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ギプス」の記事における「語源と歴史」の解説

日本語ギプス語源は、Gipsオランダ語石膏の意)である。日本でしばしば発音されてしまう「ギブス」は誤り19世紀半ば1852年イギリス・オランダ戦争においてオランダ軍医であったアントニウス・マタイセンが戦場骨折銃創負った兵士早期搬送するため、患部石膏含んだ巻軸帯で固めたのが始まりとされている。元々はメソポタミア文明時代において患部収めた木枠石膏泥を流し込み固め方法が行なわれていたもの改良し処置迅速化図ったのである日本においては尾澤豊太郞ギプス製造初め成功したその後看護婦らが巻軸包帯石膏まぶして作成する家内手工業的なものであったが、1955年国産初の石膏ギプス東京衛材研究所(現アルケア株式会社)が市販開始し普及した。現在では医療現場からの要求により技術開発進みガラス繊維製の基布水硬性ポリウレタン樹脂を浸含させたガラス繊維キャスティングテープが主流となっており、石膏ギプス義肢装具採型用として使われる程度となりつつある。 変わった使い方としては映画など特殊メイク作成時に、顔や体の型を取るのにも用いられる。(ジョージ・シーガルは、この方法で石膏彫刻作った。) 利き手などの矯正のために親が子供に対してギプス装着強制する使用例もあったが、現在このようなことをする虐待とされる

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リバタリアニズム」の記事における「語源と歴史」の解説

リバタリアンという用語が使用され最初の記録1789年であり、イギリス人のウィリアム・ベルシャム(英語版)が形而上学文脈リバタリアニズムについて記したきだったフランス無政府共産主義者でニューヨーク移り住んだジョゼフ・デジャック(英語版)は、1858年から1861年にかけて定期刊行した「ル・リベルテール(英語版)」の中でリバタリアンという用語を用いた。この時期ではリバタリアンアナキズム同義語のような立ち位置だった。 アメリカでは1870年代後半から1880年代初頭にかけて、個人主義的無政府主義のベンジャミン・タッカー(英語版)によってリバタリアン普及した。他にも19世紀リバタリアン思想家には、奴隷制度廃止運動に関わったライサンダー・スプーナー、フリーバンキングの推進者だったウィリアム・バチェルダー・グリーン(英語版)などがいた。また、リベラリズム同義語としてのリバタリアニズム1955年にディーン・ラッセルによって大衆広まったその後古典的自由主義信念を持つ者が増加しそのような人たちが自らをリバタリアン表現するようになり、その意味での用語を広めたのは1960年代活躍したマレー・ロスバードだった。1970年代にはロバート・ノージックアカデミックな世界哲学分野アメリカ国外へこの用語を広めるのに貢献した 。 「en:Libertarianism in the United States」も参照

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ファーストレディ」の記事における「語源と歴史」の解説

新国家アメリカ合衆国元首にして行政府の長である「民によって選出された王」の呼称は、合衆国憲法によって「アメリカ合衆国大統領 (President of the United States)」と定められていたが、初代大統領ジョージ・ワシントン以来大統領伴侶である大統領夫人呼称長らく存在しなかった。そのためワシントン夫人マーサは「レディー・ワシントン (Lady Washington)」、次のジョン・アダムズ大統領夫人アビゲイルは「ミセス・プレジデント (Mrs. President)」または「ハー・マジェスティー (Her Majesty = 陛下)」と呼ばれ初期大統領夫人中には「プレジデントレス (Presidentress)」などという造語呼ばれる者も多かったなど、用語に著しく一貫性欠けていた。 「ファースト・レディ (first lady)」という表現初出1849年で、第3トマス・ジェファーソン大統領と第4代ジェームズ・マディソン大統領2代16年亘ってホワイトハウスホステス役を務めたドリー・マディソン下記逸話』の節を参照)が死去した際、その葬儀席上時のザカリー・テイラー大統領読み上げた弔辞中に She will never be forgotten, because she was truly our first lady for a half-century. 彼女のことは永遠に忘れ去られないことでしょう。なぜなら半世紀長き亘って、彼女はまさに我々にとって第一級女性であったからであります。 とあったのがそれである。 また、1863年には、イギリスの『タイムズ』誌記者ウィリアム・ハワード・ラッセル(英語版)が、南北戦争戦争特派員として滞米していた時に見聞したことを綴った手記出版しているが、その中にエイブラハム・リンカーン大統領夫人メアリーに関して流布していた風説紹介したくだりがあり、そこでマーサのことを次のように言い表している。 ...concerning the first lady in the land この地における第一女性に関する... これが、first lady という語が現大統領夫人使われた初例である。 「ファーストレディ (first lady)」という語が大統領夫人呼称として定着したのは、実に20世紀初になってからのことであった劇作家チャールズ・フレデリック・ナイドリンガー/ナードリンジャー (Charles Frederic Nirdoinger) は、ドリー・マディソン題材とした喜劇『ザ・ファースト・レディ・イン・ザ・ランド(原題The first lady in the land)』を1911年[信頼性検証]に著したが、これが大ヒットして新聞劇評などで取り上げられたため、以後広く一般に知れ渡るようになった第一次世界大戦後首都ワシントンD.C.外国首脳夫妻招いて公式行事が行われることが多くなると、ホワイトハウスでは大統領夫人との釣り合い上、外国首脳夫人に対してファーストレディ呼称用いるようになり、ここからこの語が世界広まっていった。今日では新聞紙面やニュースの中で使われる用語のみならず大統領府首相府が公式・非公式席上でこれを使用している国も少なくない。 なお、"first lady"(the を冠するのが通例)という英語表現は、英語圏以外の国でも翻訳せずにそのままの形で使われることが多く国際語的な一面をもった表現ともなっている。

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ちゃんころ」の記事における「語源と歴史」の解説

中国人(特に漢民族)を意味するちゃんころ」という言葉は、日本帝国中国積極的に出兵する明治時代から頻繁に使われるようになったいわゆる兵隊シナ語」のひとつである。日本帝国政治家日本軍清国訪ねた際、満州民族支配下にいた漢族満州民族前に跪く頭を下げて御辞儀しながら漢族たちを奴才と呼んでいたことを日本軍見て中国人(漢民族)を清国奴ちゃんころ)と呼んでいたのが語源である。中国服のことを「チャン服」、中華料理のことを「チャン料」などと形容詞的に略して用いることもあった。戦中日本軍征服した中国領土にいる中国人(漢民族)や敵に対して用い俗語として定着した

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レクチン」の記事における「語源と歴史」の解説

歴史的には、アメリカ免疫学者 William Clouser Boyd によって、1945年に「レクチン」は命名された。 マメ科植物などが血液凝集する成分を持つことは既に当時から知られていたが(1888年にHermann Stilmarkがトウゴマによる血液凝集発見していた)、しかしBoyd以前血液型依存しない思われていた。Boyd研究により、血液型依存する事が分かったので、ラテン語の「選び出す」 legere にちなみ、レクチン名づけられた。Boydスーパーリママメ買ってきて実験したという。そして、Boyd実験リママメレクチンが、A型赤血球凝集したという。 その後の研究などで、糖によってレクチン凝集阻止される事が分かったまた、血液糖鎖などの構造解明ヒントになった。 なお、1888年にHermann Stilmarkの発見したトウゴマ毒性レクチンはリシン(ricin)である。アミノ酸のリシン(lysine)と別物。 これらレクチン研究当初は、植物のレクチン当時研究者関心事だった。しかし現代では動物にもレクチン存在する事が分かっている。

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コキス」の記事における「語源と歴史」の解説

コキススリランカ伝統料理考えられているが、オランダに統治されていた17世紀中頃から18世紀末にかけてオランダから入ってきたと考えられている。その名前は、オランダ語クッキービスケット意味するKoekjeに由来するスウェーデンのロゼットクッキーやペルシャのバーミエは、コキスによく似ている

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オースチナイト」の記事における「語源と歴史」の解説

オースチナイト1935年アメリカ合衆国ユタ州トゥーイル郡のディープクリーク山地英語版中にある「ゴールドヒル英語版鉱山」においてロイド・W・ステイプルズにより初発見され、スタンフォード大学鉱物学者、オースティン・フリント・ロジャース (1877–1957) に因み命名された。

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元老院」の記事における「語源と歴史」の解説

古代ローマでは、初代ロームルス王以来多く一族抱え有力者をもって貴族パトリキ)」として終身の「元老院」を構成させ、王の「助言機関」とした。これが最初の「元老院」である。ラテン語で「老いた者」を意味する senex が語源で、ここから派生した senatus「年長者」という語が「年長者会議」という意味で使われるようになった。 前509年王制打倒されたあとの共和政ローマでは、元老院実質的な統治機関となったローマ元老院は、紀元前27年帝政移行後も存続したが、次第権限縮小され正当な皇帝承認する機関へ、そして、皇帝諮問機関へと、段階的に性格変えていった。ローマ元老院7世紀ごろに姿を消したが、ローマ元老院模して設けられコンスタンティノポリス元老院1453年東ローマ帝国滅亡まで存続した。 西欧経験した唯一の共和政体共和政ローマであり、貴族権威によらない合議制統治機関として西欧が知る唯一の実例ローマ元老院だったことから、西欧世界において senatus が各国語変化した語(下記各国の例」を参照)が「合議制による国家意思決定機関」、または「高い権威持った合議制国家機関」を表す普通名詞化したその後中世ポーランド王国ポーランド・リトアニア共和国)、ヴェネツィア共和国フィレンツェ共和国、などに共和政体ないし貴族共和政体が成立すると、その統治機関にも「元老院」の名称が用いられた。ヴェネツィアフィレンツェ機関は「参事会」と訳されることが多くポーランド機関は「元老院」と訳されるそのままセナト」と呼ばれるまた、東ローマ帝国皇帝継承する形で成立したロマノフ朝ロシア帝国では、ピョートル1世諮問機関として設置した機関に「元老院」の名称を用いている。そして、近世になり、体系的な国家構造将来展望をもつ初の近代的共和国としてアメリカ合衆国独立すると、その議会旧・宗主国イギリス両院制取り入れながらも、その「貴族院庶民院」という名称を改めて「元老院代議院」として現在に至っている。 この結果、現在でも古代ローマ源泉とする西欧文明継承する国々中でも英・仏・西・米の旧・宗主国や、その旧・植民地20世紀になってから独立した国のほとんどが、上院正式名称に「元老院」を用いるに至っている。 なお、日本でも江戸時代まで、組織幹部肩書きに「おとな」「年寄」といった年長者意味する語を当てることが多かった幕府政策決定者を「老中」や「大老」と呼んだり、大相撲親方のことを「年寄」と呼ぶといった例がある。明治維新後の太政官制では、1875年設置され立法諮問機関のことを「元老院」と呼んでいた。

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マジョラム」の記事における「語源と歴史」の解説

属名のOriganumはギリシャ語のoros(山)とganos(喜び)の合成語で「山の喜び」の意がある。 古代ギリシャから栽培されていた。古代ギリシャローマで幸せ象徴するハーブとして結婚する若い二人が頭にこの花冠をのせる習慣があった。また、故人冥福祈って死装束香りとしてお墓にも植えられた。中世ローマ人イギリス伝えると、ホップ使われる前までは、このハーブビール苦み使用された。この香り吸い込む健康に良いとされ、乾燥したハーブ幅広く売られていた。

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サワッディー」の記事における「語源と歴史」の解説

サワッディー」という語は人造語であり、自然発生した挨拶ではない。「サワッディー」の語が誕生する以前は「パイナイマー?」(どこへ行ってきた?)や、華僑影響しゃべり始められたと考えられる「キンカーオルーヤン?」(ご飯もう食べた?)「サバーイディーマイ?」(お元気ですか?)などの語が出会い頭挨拶代わりに使われていたとされている。 1931年ラジオ放送開始された際に、当時チュラーロンコーン大学文学部教員であったプラ・ウッパキットシラパサーン(本名、ニム・カーンチャナチーワ)によりラジオ放送終了時挨拶として考案した語源英単語swastika語源ともなったサンスクリット語のsvastikaaが活用した形であるsvastiのタイ訛りsawat(di) (สวัสดิ์ サワッ)の最後黙字diを純タイ語であるdii(ดี ディー良い」)に変えた物。このためサワッディー」とは「良い吉祥」という意味になる。 元々は、ラジオのために作られメディア用語であったが、これがプラ・ウッパキットシラパサーンの属すチュラーロンコーン大学文学部女生徒の間で友人出会った際や分かれた際の合い言葉のように使われだし、いわゆる学生となったその後庶民などにも浸透していき現在の地位確立することになる。後の1950年事実上言語統制機関であるタイ学士院辞書編纂会議において「タイ語には元々挨拶語はない。しかし、もし適切な語があるとすればサワッディー』以外考えられない」という旨の議論があり、名実ともに挨拶語地位確立した

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ハニーフ」の記事における「語源と歴史」の解説

この言葉は「傾く、衰える」、「横に曲がる」を意味するアラビア語語根ḥ-n-f由来し、同じ意味のシリア語語根由来する現代アラビア語筆記アラビア語-英語辞書では、「真の信者正統派自分取り巻く偽の信条軽蔑し真の宗教公言する者」と定義されている。 フランシス・エドワード・ピーターズによればクルアーン3章67節(3:67)では「直立した人」と訳されクルアーン以外では「正しい状態や傾向に傾くこと」と訳されている。W・モンゴメリー・ワットによれば、この言葉ユダヤ人キリスト教徒以前から「異教徒に対して使っていたようで、シリアアラブの古いヘレニズム化され宗教信者適用され初期イスラム教徒愚弄するために使われていたという 。 マイケル・クックは「その正確な意味は不明」としながらも、クルアーンでは「原始的な一神教示唆する文脈使われており、(現代の)ユダヤ教キリスト教対比させる傾向がある」と述べている。クルアーンの中でハニーフは「アブラハム強く結び付けられているが、モーゼイエスとは決し結び付けられていない」 。 オックスフォード・イスラミック・スタディーズのオンライン版では、ハニーフを「アブラハムモデル例示されているように、自分すべての事柄において完全に直立している者」と定義しており、イスラーム到来以前には「この用語は……一神教受け入れたが、ユダヤ人キリスト教徒コミュニティには参加しなかった敬虔な人々を示すために使われていた」としている。 ハニフィーヤ(Hanīfiyyah)を「イブラヒムの法」と訳し動詞 taḥannafa を「(偶像崇拝から)背を向ける」と訳す者もいる。またハニーフは「イブラヒム宗教ハニーフムスリムに従っていたと主張する者もいる。ワットムスリム(意味:神に委ねる)の分詞形から生じたイスラムという動詞が、宗教識別する記述として生まれたのは、メディナ時代後期になってからではないか説いている。

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オク・チャトラン」の記事における「語源と歴史」の解説

チャトラン」はおそらくサンスクリット語の「catur-aṅga」あるいはペルシア語の「šaṭranj」に由来する。「オク」(Ouk、Ok)は将棋そのもの指し、また王手をかけた時に発声される。 この遊戯正確な起源は、その他の将棋類同様に、よく分かっていない。 オク歴史的証拠には以下の事柄がある。 12世紀から13世紀アンコール・ワットプリヤ・カーンバイヨンレリーフ存在するレリーフでは、2人人物いくつかの駒が置かれはさんでいる。この場面将棋強く連想させるしかしながら盤上には5つまたは7つの駒しかなく、馬の駒もない。これは、単に様式化結果であるか、ルール異なっていたことを示しているか、あるいは全く異な遊戯あるかのいずれかであろう13世紀書かれマルコ・ポーロの『東方見聞録』のいくつかの版では、この地域において黒檀使われていたことが言及されている。黒檀からは黒色の駒が作られる東南アジア(より正確にシャム)における信頼できる最初将棋類に関する記述1687年シモン・ド・ラ・ルベールによってなされた。彼は現地人中国式象棋シャンチー)と「私達の」象棋指していたと記した

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