1943年(昭和18年)11月以降
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「不知火 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「1943年(昭和18年)11月以降」の解説
1943年(昭和18年)11月15日、不知火はニューギニア島西部方面の部隊を支援するために新編された第九艦隊に、敷設艇白鷹と共に編入した。不知火は内海西部に回航され、11月下旬から12月下旬にかけて訓練と整備を行った。1944年(昭和19年)1月5日以降は同島ウェワクへの輸送任務に就いた。2月23日、第九十警備隊約300名を同島北岸のホーランジアに輸送した。 3月1日、中部太平洋にあった不知火は、北方海域を担当する第9駆逐隊(霞、薄雲、白雲)に編入され、第五艦隊(司令長官志摩清英中将)第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将)の麾下となった。不知火が第9駆逐隊に合流する前の3月16日、米潜トートグの雷撃で白雲が撃沈された。南方での輸送任務を終えた不知火は呉工廠で3月22-28日に探信儀を装備する工事を行った。3月31日、第9駆逐隊は第18駆逐隊に改称された。第9駆逐隊司令の井上良雄大佐が司令となり、井上大佐は不知火を司令駆逐艦に指定した。不知火と霞は再び第18駆逐隊として活動する事になった。4月以降は大湊、千島方面の護衛活動を行った。 6月、アメリカ軍はマリアナ諸島に来襲しサイパンの戦いが始まった。戦艦山城と第五艦隊で海軍陸戦隊を強行上陸させる作戦が立案され、各艦が横須賀に集結。不知火は6月21日に入港し、機銃およびレーダーを整備した。しかし6月19-20日のマリアナ沖海戦で日本海軍が敗れた結果、陸海軍間の6月22日〜23日の協議でサイパン奪回作戦の断念が決まり、不知火と霞は6月27日、輸送船団の対潜哨戒任務に投入された。その後、重巡那智、重巡足柄と共に大湊へ移動した。7月7日、薄雲が米潜水艦の雷撃で撃沈され、第18駆逐隊は不知火と霞の2隻となった。8月2日、横須賀に入港した。父島へ向かった第4804船団が8月4-5日に壊滅し(スカベンジャー作戦)、第18駆逐隊と軽巡木曾、軽巡多摩が父島への緊急輸送任務に従事した。8月14日、呉に到着。その後、第五艦隊は捷号作戦の第二遊撃部隊として瀬戸内海で小沢治三郎中将の機動部隊(第三艦隊)と共に訓練を行った。 10月14日、台湾沖航空戦で日本軍は米機動部隊に壊滅的な被害を与えたと誤認し、連合艦隊司令部は第二遊撃部隊(志摩艦隊)に台湾東方への進出と、残敵の掃討などを命じた。10月15日、志摩中将は重巡2隻(那智、足柄)と第一水雷戦隊(軽巡《阿武隈》、第7駆逐隊《曙、潮》、第18駆逐隊《不知火、霞》、第21駆逐隊《若葉、初春、初霜》)を率いて瀬戸内海を出撃した。16日、連合艦隊司令部は戦果報告が誤認と気付き、第二遊撃部隊に台湾の馬公に入港するよう命じた。不知火など各艦は17日に奄美大島薩川湾に入港し、翌日出航して20日馬公に到着した。 志摩中将は10月21日、第二航空戦隊の要請で第21駆逐隊の3隻を派遣した。同日、第二遊撃部隊は残る艦隊でレイテ湾に来襲した米軍を迎撃するために出撃。23日夕刻にコロン湾に到着、24日午前2時に出港し、西村祥治中将が率いる第一遊撃部隊第三部隊に続いてスリガオ海峡に向かった。
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