ドイツ統一への目論見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)
普仏戦争の原因は、ドイツ統一にまつわる幾つかの事件にその根源があった。プロイセンとオーストリアがドイツの主導権をかけて戦った普墺戦争(1866年)はプロイセンの勝利に終わった。戦争の結果、プロイセンは多くの領土を併合して北ドイツやライン川流域に勢力を伸ばし、またドイツ諸邦を連合する北ドイツ連邦を主導した。 こうして新たに強い勢力が生まれることは、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1815年)で決められたヨーロッパのパワー・バランスが崩れることを意味していた。当時のフランス皇帝ナポレオン3世は、フランスにとっての戦略的な要地の安全を確保するため、ベルギーやライン川左岸における領地補償を要求したが、プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクは、にべもなくこれを拒否した。これはライン川流域に近いフランスにとって直接の脅威となった。 次にプロイセンはドイツ南部に目を向け、ドイツ南部の諸王国(バイエルン王国、ヴュルテンベルク王国、バーデン大公国、ヘッセン大公国)をプロイセンが主導する統一ドイツ国家の中に取り込むことを画策した。プロイセンが南ドイツ諸国を併合すれば、プロイセンの軍事力は強大化するため、フランスはプロイセンの南ドイツ併合に強く反対した。 プロイセンでは、大きな統一ドイツ帝国を作るためには、ドイツ南部諸国においてドイツ民族としてのナショナリズムを呼び覚ます必要があり、そのためにはフランスとの戦争が不可避かつ不可欠であると分析判断していた。この狙いはドイツ宰相ビスマルクの次の言葉によく表れている:「統一ドイツが出来上がるためには、その前に普仏戦争が起こらねばならない事は分かっていた」。ビスマルクは、南ドイツ諸邦をプロイセン側に引き込み、それによってドイツ側の数的優位を確保するためには、フランスが侵略者と見なされねばならないこともよく認識していた。また、多くのドイツ人は、歴史的にフランスがヨーロッパを不安定化させてきたと見なしており、平和を乱さないためにはフランスの力を弱める必要があると考えていた。
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