ドイツ系住民の追放と文化的遺産の除去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 21:16 UTC 版)
「回復領」の記事における「ドイツ系住民の追放と文化的遺産の除去」の解説
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} ルビョンシュ修道院の協同教会にあった、1680年頃の聖歌隊席 空っぽになったルビョンシュ修道院の協同教会 ルビョンシュ修道院のバロック装飾の内装は撤去され、ポーランド中央部へ移送された。聖歌隊席はルブリン県の村Stężycaにある。修道院は、シレジアにおける東方植民の貴重な証拠である。 「en:Flight and expulsion of Germans from Poland during and after World War II」および「地名決定委員会」を参照 「en:Emigration from Poland to Germany after World War II」も参照 回復領には、併合の後にもかなりの数のドイツ系住民が残っていた。終戦時の国民統一臨時政府当局は「回復領担当省」を設置し、副首相のヴワディスワフ・ゴムウカを兼任で担当大臣とした。「本国送還局」が、住民の追放や再定住を監督・組織した。1946年2月14日の国勢調査によれば、この時点でポーランドにはまだ228.8万人のドイツ人が留まっており、そのおよそ91%に相当する207.5万人は、回復領に住んでいた。この段階で、ドイツ人は回復領の人口の41%を占めていた。ところが、1950年には、国内のドイツ人はわずか20万人に急減し、1957年には6.5万人にまで減少してしまった。 第二次世界大戦後、回復領からは多数のドイツ人が脱出して西方へ去ったが (Flight and expulsion of Germans from Poland during and after World War II) 、それに続いたのは、何世紀もの間に刻まれたドイツの歴史と文化を、公の目に触れる場所から一掃するという大規模なキャンペーンであった。オハイオ大学のT・デイヴィッド・カープ (T. David Cup) は、これを次のように説明している: ポーランドの政権と人民とカトリック教会は、相互に努力しながら、より徹底的、攻撃的に、人物・場所・モノから民族性を消去することに取り組み、各地方のドイツ人の歴史を上書きして消去し、ポーランドの過去を、ポーランド人の記憶という抽象的な領域にとどまらず、物理的な物体の領域において称揚した。 — 1946年1月に、新しい公式地名を定めるために地名決定委員会が設置された。以降、1950年末までに、3万件以上のドイツ語地名が、ポーランド語地名に置き換えられるか、ポーランド語化した中世のスラブ語の地名に置き換えられた。スラブ語地名が存在していなかった場合には、ドイツ語地名を翻訳するか、全く新たな地名が創出された。ドイツに関係のある名称、例えばドイツの町にちなんで命名された道路の名称などは、新しい名称が与えられた。 公立学校、政府メディア、教会の典礼におけるドイツ語の使用は禁止された。ドイツ人に関係した記念碑、墓、建物、建物群なども、多数が破壊された。美術品は、国内の他の場所に移された。文化財などの撤去を組織的に行うために、集積所が設定されることもあった。早くも1945年のうちに、貨車28台分、トラック118台分にのぼる、膨大な量のシレジアの美術品が、ワルシャワの国立美術館 (pl:Muzeum Narodowe w Warszawie、en:National Museum, Warsaw) に送られた。プロテスタント教会は、カトリック教会に改装されるか、教会以外の用途に転用されるか、カトリック教会の建築用材を得るために解体された。ドイツ語で記された文章は、教会や墓地など宗教的なものに記されていた文言も含めてすべて消された。ルブシュ地方 (pl:Ziemia lubuska、en:Ziemia Lubuska)では、最後まで残ったドイツ文化の痕跡を探し出して破壊するための「社会主義的競技会」が開催されたという。シレジア地方では、こうした取り組みによって生じた損害は、第二次世界大戦によって生じた損害に匹敵するものであった。
※この「ドイツ系住民の追放と文化的遺産の除去」の解説は、「回復領」の解説の一部です。
「ドイツ系住民の追放と文化的遺産の除去」を含む「回復領」の記事については、「回復領」の概要を参照ください。
- ドイツ系住民の追放と文化的遺産の除去のページへのリンク