フルチーン地域とメーメル地方のドイツ併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:57 UTC 版)
「旧ドイツ東部領土」の記事における「フルチーン地域とメーメル地方のドイツ併合」の解説
1938年10月、ヴェルサイユ条約に基づいてチェコスロバキアに割譲されたモラヴィア・スレスコ州のフルチーン地域(英語版)(チェコ語でHlučínsko、ドイツ語でHultschiner Ländchen)は、ミュンヘン会談によりチェコスロバキアが失う地域の一部として第三帝国に併合された。しかし他のチェコスロバキアによる失地とは違い、ズデーテンラント帝国大管区(ズデーテン地方を含む行政区域)ではなく、プロイセン自由州(上部シレジア)に併合された。 1938年後半までに、リトアニアはクライペダ地方(メーメル地方)の支配権を失っていた。最後通牒を突きつけられたリトアニア代表団はベルリンへ急行したが、1939年3月23日早朝、リトアニア外務大臣ユオザス・ウルプシース(英語版)とドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップは「ドイツに対するメーメル地方割譲条約」に調印し、代わりにリトアニアは数年前に建設したばかりのメーメル港におけるリトアニアの自由貿易権を保障された。
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