今日における「旧ドイツ東部領土」の地位
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「旧ドイツ東部領土」の記事における「今日における「旧ドイツ東部領土」の地位」の解説
現在もポーランド政府は、没収した個人の資産や土地の返却及び賠償において拒否を続け、ドイツとポーランド両国間の問題となっている。 植民者の定着 かつての住民が高齢化し、実際にドイツの支配を経験した人々が減少する一方で、新たに植民してきた人々が定住し、そこを故郷とする住民も少なからず存在している。 ドイツ再統一とオーデル=ナイセ線の承認 前述した様にポツダム協定でオーデル=ナイセ線が国境と定まったものの、西ドイツは「旧ドイツ東部領土」がソ連ないしはポーランドの占領下に置かれているという見解を取っていた。しかし、ベルリンの壁崩壊をきっかけとした東西ドイツ統一の動きの中で、ヘルムート・コールはオーデル=ナイセ線の承認(=「旧ドイツ東部領土」の放棄)へと動いた。長年の政府方針を転換するとも言えるコールの行動は追放者連盟の猛烈な反発を招いたものの、一方でポーランド側がドイツ統一に当たって、金銭による「旧ドイツ東部領土」のドイツへの併合(更には居住している植民者の追放やひいてはポーランドへの「再侵攻」)という懸念を持っていたことから、オーデル=ナイセ線の承認は統一実現の上で不可欠だった。[要出典] 1990年に統一が達成されると、統一ドイツ政権はドイツ最終規定条約の条項を受け入れ、オーデル=ナイセ線の東領域に対する全ての請求を放棄した。これによりポツダム会談におけるソビエト連邦、アメリカ合衆国、イギリス間の覚書にすぎなかったオーデル=ナイセ線は、正式な条約として確定した。更に同年11月14日にドイツ・ポーランド間で国境条約が締結され、国境が正式承認された。 ポーランドのEU加盟と往来の自由化 2004年5月1日にポーランドが欧州連合 (EU) に加盟したことで、それまでオーデル=ナイセ線で行われていた通関手続きが廃止され、また特別な許可なしに相手国にて居住・就労することが可能となった。不動産の購入などではしばらく制限が設けられているものの、かつて居住していた被追放者は制限なく故郷を訪問できるようになった。2007年12月21日からはポーランドがシェンゲン条約に加入したため、国境警備や検問も廃止され、更に行来が容易となった。[要出典] 今日ではポーランドのバルト海沿岸地域にはドイツ人観光客が多く訪れている。被追放者の墓参旅行は1990年半ばまで地元には歓迎されない雰囲気が強かったが、現在では不満の表現や失地回復要求の表現ではなく、むしろ善意の懐旧的な旅行と受け止められるようになってきている。[要出典]
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