同君連合の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:02 UTC 版)
「ブランデンブルク=プロイセン」の記事における「同君連合の成立」の解説
ホーエンツォレルン家本家は15世紀よりブランデンブルク辺境伯領を領有しており、また神聖ローマ帝国の選帝侯資格も有していた。1525年、クラクフ条約によりドイツ騎士団国の一部がプロイセン公国として世俗化された。クラクフ条約に基づき、プロイセン公国はポーランド王国の封土になり、ホーエンツォレルン家の分家出身のドイツ騎士団総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハが初代プロイセン公に即位した。アルブレヒトは1550年にアンナ・マリア・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク=エッティンゲン(母エリーザベト・フォン・ブランデンブルク(英語版)がホーエンツォレルン家本家出身)と再婚、後継者のアルブレヒト・フリードリヒをもうけた。その後、ブランデンブルク選帝侯家は1563年にポーランド王よりプロイセン公位の継承権を与えられた。1568年にアルブレヒトが死去してアルブレヒト・フリードリヒが公位を継承したが、母アンナ・マリアも同年に死去、以降アルブレヒト・フリードリヒに精神疾患の兆候が表れるようになった。アルブレヒト・フリードリヒは1573年にマリー・エレオノーレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルクと結婚、娘を数人もうけたが、精神疾患によりプロイセン公国の統治はアルブレヒトの叔父の息子にあたるブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒ(摂政在任:1577年 – 1603年)に委ねられた。 1594年、アルブレヒト・フリードリヒの娘アンナ・フォン・プロイセンがヨアヒム・フリードリヒ・フォン・ブランデンブルク(1598年にブランデンブルク選帝侯に即位)の息子ヨハン・ジギスムントと結婚した。この結婚により、ブランデンブルク選帝侯はプロイセン公国の継承権を改めて確保するとともにユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国の継承権も確保した。1603年にプロイセン摂政ゲオルク・フリードリヒが死去すると、ヨアヒム・フリードリヒがその後任になり、同年にはホーエンツォレルン家の成員の間でゲーラ条約が締結され、ホーエンツォレルン家領の分割相続が禁じられた。 1618年にアルブレヒト・フリードリヒが死去すると、ヨハン・ジギスムント(同年にブランデンブルク選帝侯に即位)がプロイセン公位を継承したが、プロイセン公国は1656年/1657年まで引き続きポーランド王国の封土だった。また、ヨハン・ジギスムントが1616年に卒中を起こしており、とても統治できる状態ではなかったため、その妻アンナは1619年にヨハン・ジギスムントが再度卒中を起こして死去するまで代わりにプロイセン公国を統治した。
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