イギリス革命と寛容法
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「イギリス革命と寛容法」の解説
詳細は「清教徒革命」、「名誉革命」、および「アメリカ合衆国における政教分離の歴史#近代イングランドにおける宗教と国家」を参照 1603年3月、エリザベス1世死去の報を受けてスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位し、ステュアート朝を開いた。これにより、イングランドとスコットランドは、別々の議会をもちながらも同じ国王によって統治される同君連合となった。新しい国王に対していち早く行動したのは、イングランド国教会からカトリック的要素を一掃して宗教改革の徹底を図るカルヴァン派の人々であり、彼らはイギリスにおいて「ピューリタン(清教徒)」と呼ばれた。ピューリタンたちは、1603年4月には戴冠のためにエディンバラからロンドンに向かうジェームズに「千人請願」という書状を提出し、さらに徹底した教会改革を進めるよう求めた。これを受けて国王は翌1604年1月にハンプトン・コート宮殿にて各宗派の代表を集め、ハンプトン・コート会議(英語版)を開いた。ところが、この会議でジェームズは「主教なければ国王なし」と述べ、先王エリザベスからの申し渡し事項でもある国教会体制堅持の姿勢を示した。1605年11月にはカトリック教徒が議会に爆薬を用いて両院議員と国王の爆殺を図るという火薬陰謀事件が未然に発覚しており、ジェームズ1世の姿勢はピューリタンのみならずカトリック教徒からも不満があったことがわかる。ただし、この事件はむしろイングランドの人々が従来もっていた反カトリック感情を刺激する結果となった。これは、スペインやフランスなどのカトリック強国の脅威、ローマ教皇やイエズス会などの圧力に対する反感などに根差した歴史的な感情であった。アルマダの撃退や同君連合の成立などによりカトリックの脅威が相対的に減じるなか、ステュアート朝の王権は現実的な外交関係を展開し、近接する大国であるスペインやフランスには融和的に振る舞ったことが、議会からの非難を浴びたのである。国王側も議会からの干渉を嫌い、その招集を極力回避しようとした。ヨーロッパ大陸が三十年戦争の戦乱に陥った際もイギリスは参戦に消極的であったが、その背景には戦費調達のために議会を開会することに王が難色を示したためである。しかし、多くのイギリス人はこの戦争をカトリックとプロテスタントの戦争とみなし、イギリスはプロテスタント側に立って戦うのを期待した。国王と宮廷はこうして反カトリック意識の標的とされていった。一方、ジェントリ(「郷紳」、地主層)を母体とする議会の庶民院は、王権は直接神の権利に由来するという「王権神授説」を掲げて議会を軽視しがちな王に対し、イングランド固有の法体系であるコモン・ローを根拠として抵抗した。また、国王の経済政策も1620年代の深刻な不況に対して抜本的な対策をおこなわず、むしろ財政難のために諸々の独占権を濫発してジェントリやヨーマン(独立自営農民)の活動を妨げており、彼らは議会に議席を有していたために議会と国王は対立した。なお、当時のイギリスはオランダやフランスとともに北アメリカ大陸に進出し、ヴァージニア植民地を皮切りに東部で植民地化を進めていった。植民地最初の定住集落ジェームズタウンは国王ジェームズの名にちなんでいる。 ジェームズ1世の子で、その後を継いだチャールズ1世も議会の同意なき外交や課税強化をおこなうなど議会軽視の姿勢がみえたため、1628年に議会は「権利請願」を王に提出し、議会の承認なくして課税することや国民を不法に逮捕することは今後おこなわないと約束させた。これに対して王は先代同様王権神授説を信奉しており、翌1629年には議会を解散して反対派の議員を投獄して専制政治を続けた。当時、成長していたヨーマンや中小の商工業者にはピューリタンが多く、チャールズを敵視した。チャールズ1世は、フランスからカトリックの王妃アンリエッタ・マリアを迎え、セント・ジェームズ宮殿内にバロック様式のカトリック礼拝堂を建設するなど親カトリック的な政策を進め、カンタベリー大主教に登用されたウィリアム・ロードは国教会の正統性を「使徒継承性」という議論によって基礎づける改革を進める過程でピューリタンを弾圧した。ピューリタンはさらに国王と国教会への反発と嫌悪感を強め、国教会支持にとどまっていた人々も宮廷の官職にあずかれない人々を中心として国教会の改変に反発し、国王に対してもカトリック復活を意図しているのではないかとの疑いから、ピューリタニズムに接近した。 1641年11月、議会は国王に抗議して「議会の大諫奏」を発した。1642年3月、ロンドンを離れて戦闘準備を始めた国王に対して議会側が「民兵条例」を採択して軍事権を握り、同年6月には議会主権を主張する「19か条提案」をチャールズ1世に提出した。国王は受諾を拒否し、同年8月末にノッティンガムにおいて挙兵した。こうして、国王派(騎士党)と議会派(円頂党)での内戦(イングランド内戦)が勃発した。当初、国王軍は三十年戦争への従軍経験をもつ貴族や戦いのプロフェッショナルである精強な騎兵隊を擁し、土着性の強いアマチュア集団である民兵隊に対して優勢に立ったが、議会派のオリヴァー・クロムウェルは議会軍を改革・再編成して「鉄騎隊」を指揮し、1645年6月のネイズビーの戦いで決定的勝利を収め、翌年6月に内乱は終結した。1648年12月、長期議会では国王の処遇に穏健な態度を示した長老派議員が追放されて独立派議員だけで構成されるランプ議会が開かれ、1649年初めには国王を裁くための高等裁判所が設置された。同年1月末、チャールズ1世は「専制君主、反逆者、殺人者、国家に対する公敵」の罪で死刑判決を受け、公衆の前で斬首された。同年5月には正式に共和政宣言が出され、クロムウェルを首班とするイングランド共和国となった。この一連の動きを、清教徒革命という。 国王の処刑は当時にあっては宗教的にも政治的にも掟に反していたことから国内外に大きな衝撃を与え、スコットランド議会はこれに反発してチャールズの息子(チャールズ2世)を擁立したが、クロムウェル軍に敗れた。これは文化的変容をももたらし、それまで終末における「キリストの再臨」の願いは衰退する歴史における断絶と把握されてきたものが、いまやピューリタンにとっては「真の教会」が次第に勝利に向かい、この再臨を準備して進歩の思想が出現しつつあると観念された。そして、この進歩は自身の行動にこそかかっているのだと考えられた。革命中になされた多くの説教の中身が以上のような趣旨であり、個人の自由意志によって参加する形で多数のプロテスタント教会が、当時に組織された。強い選民意識を有していたクロムウェルをもってしても宗教的統制の掌握はできず、当時には「神の王国」を到来を待ち望むさらに急進的な教派(セクト)が出現した。セクトは、共有地を開墾して共産主義的コンミューンの建設を目指したディッガーズ(英語版)や「内なる光」を重んずる道徳律廃棄派のランターズ(英語版)、「見えざる教会」のみが真の教会であり、真理は聖書や信条などではなく魂に直接語りかけると主張したクエーカー(フレンド派)など、多数におよんだ。 共和政成立後、クロムウェルは航海法を制定してオランダ船を締め出し、カトリック教徒の多いアイルランドへの軍事遠征を経てこれを征服し、植民地とした。アイルランドでは一般住民まで巻き込み、虐殺も起こっている。護国卿となったクロムウェルのピューリタニズムにもとづく厳格な独裁や統治に国民は不満をもつようになり、1658年9月に彼が死去すると息子のリチャード・クロムウェルが父の跡を継いで護国卿に就任したが、混乱状態を収拾できなかった彼が翌年5月に政権を投げ出したことにより、共和政は幕を閉じた。1660年2月、スコットランド軍司令官のジョージ・マンクによって長期議会が再開され、大陸に亡命していたチャールズ2世を国王に迎えた(イングランド王政復古)。 チャールズ2世はカトリックに傾斜しながらも国教会体制を維持したが、王位継承者であった王弟ヨーク公ジェームズはカトリック教徒であり、その即位をめぐって即位反対派(「嫌悪派」、ホイッグ党)と即位支持派(請願派、トーリー党)に議会は分裂した。結局、ジェームズは1685年にジェームズ2世として即位した。即位後、ジェームズ2世は審査法に適用除外の設置を主張してカトリック教徒を官職に登用する道を開き、オックスフォード大学のカトリック化に着手するなどのカトリック容認政策を進め、議会はこれに危機感を抱いた。そして、1688年6月、将来カトリックとして育てられるであろう王子が誕生したため、これを機にホイッグとトーリーはジェームズ2世排除で合意し、王の娘婿でプロテスタントだったオランダ総督のオラニエ公ウィレムに援軍派遣を求めた。同年11月、イングランドに上陸したウィレム軍に多くのイングランド貴族が帰順し、孤立無援となった王は秘かにフランスに亡命した。翌1689年2月、ウィレムとその妻メアリーは議会が提示する国民の権利と自由を確認した「権利宣言」を受け入れ、共同統治者ウィリアム3世およびメアリー2世として即位した。これは、流血をともなわずに成就した革命であるとして「名誉革命」と呼ばれている。 議会は1689年5月に「寛容法(英語版)(信教自由令)」、同年12月に「権利の章典」を成立させた。いずれも、ピューリタン革命以来の国王と議会の対立に終止符を打ち、以後100年にわたる「名誉革命体制」の出発点となった。 権利の章典はウィリアムとメアリーの夫妻が受け入れた「権利宣言」を基礎としたもので、これによってイギリスでは議会主権が確立し、以後は議会王政が定着していった。王位継承についてはカトリックの君主またはカトリックを配偶者とする者を王位継承者から排除するという明確な方針が打ち出された。これは、「教皇絶対主義」と「専制的権力」が結びついていると考えられたためであり、ここでは政治と宗教が密接にかかわっている点にこそむしろ一定程度の人間的自律が成立しうると考えられた。王位継承者に特定宗教を受け入れるよう求めるのは議会によって代表されるところの国民であり、国王がそれを求めるのではないことが強調された。逆説的ながらそこにおいて部分的にではあるが、多元主義と信教の自由、世俗主義が成立しているとみることが可能となる。これにより、王位請求者となったカトリックのジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートが1701年の改宗拒否によって即位できなかった結果、1714年にステュアート朝が断絶してハノーヴァー朝への交代をもたらすこととなった。 寛容法(信教自由令)では、国王に忠誠を誓いさえすればピューリタン系の非国教徒も信仰を認められ、どのような形式であれ宗教的罰則を適用させないことが宣言された。ただし、すべての非国教徒が寛容の対象となるのではなく、カトリックと無神論者は例外とされた。また、寛容の対象となったピューリタンであっても、審査法などの法令は効力を失ってはいなかったので、基本的には公職に就くことができなかった。公職を得るには年に一度聖餐式をおこない、ローマ教皇に対する忠誠拒否をおこなわなければならなかった。イギリスでは結局、国教会中心の体制が依然として維持された。
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