イギリス陸軍と抵抗運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/07 21:45 UTC 版)
「ハロルド・コール」の記事における「イギリス陸軍と抵抗運動」の解説
1906年、東ロンドンの貧民街にて生を受ける。10代の頃には強盗、横領、手形詐欺などの軽犯罪を重ねており、第二次世界大戦勃発までに何度かイギリス国内の刑務所に収監された。1939年9月、刑期短縮を受け釈放された後、過去の犯罪歴を隠してイギリス陸軍に入隊した(認識番号1877989RE)。兵科は工兵(英語版)で、配属先は第4歩兵師団(英語版)第18野戦兵站中隊(18th Field Park Company)だった。1939年末、イギリス海外派遣軍の一員としてフランスに派遣され、ロワゾン=ス=ランス(英語版)に駐屯する。フランス勤務中には軍曹(Sergeant)へと昇進している。1940年5月、下士官食堂から金品を盗んだため営倉に入れられる。そのため、フランス降伏の際に撤退から取り残されてしまい、コールは進駐してきたドイツ軍の捕虜となった。 しかし、その直後にコールは黒いプジョー・202(英語版)を盗んで脱走を遂げた。逃亡先のリールでは地元の闇市場に顔を出しており、「自分はスコットランドヤードの元刑事で、今はイギリス情報部の大尉として活動している」などと身分を偽っていた。その後マルセイユに移ると、フレンチ・レジスタンスのために逃走経路および隠れ家の確保、連絡員、書類偽装といった仕事を手がけるようになった。この時期にはポール・コール大尉を自称していたが、メイソン、ロック、コーサー、デ・ローベル、アンダーソン、デラム、ゴドフリーなどの偽名も用いた。コールは「上流階級の優雅な英国紳士」風の振る舞いを好み、プラスフォー(英語版)を穿き、ポマードで髪をなでつけ、短く切りそろえた口ひげを生やしていた。彼が担当していた抵抗運動への支援工作は、特殊作戦執行部(SOE)の全面的な援護を受けていた。 1941年、コールはベルギー出身の抵抗運動指導者、アルベール・ゲーリス(英語版)と対立することとなった。ゲーリスは連合国軍の兵士がジブラルタルへ向かうために使用したパット・ライン(Pat Line)という逃走経路の運用担当者だった。ゲーリスはコールが活動資金を横領しているものと疑っており、SOEがコールの身分を保証する旨を伝えてきても信用しようとはしなかった。そのため、部下にコールを監視させ、彼が活動資金を盗み出し、ナイトクラブや高級レストランに入り浸って「上流階級の生活」を送ることに注ぎ込んでいたという証拠を集めていたのである。こうして幹部らが処分を決定するまでコールは監禁されることとなったが、幹部らが熟考の末に処刑を決断した頃には、コールは既に窓をこじ開けて脱走を遂げていた。
※この「イギリス陸軍と抵抗運動」の解説は、「ハロルド・コール」の解説の一部です。
「イギリス陸軍と抵抗運動」を含む「ハロルド・コール」の記事については、「ハロルド・コール」の概要を参照ください。
- イギリス陸軍と抵抗運動のページへのリンク