イギリス音楽の「十字軍」として
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「三浦淳史」の記事における「イギリス音楽の「十字軍」として」の解説
彼は「評論家十字軍説」という文章の中で「批評家というものは、何かをひじょうに支持するか、あるいは何かにひじょうに反対するかしなくてはならない」というアメリカの音楽評論家の説を引用しているが、三浦が非常に支持したのはイギリスの音楽であった。音楽之友社が編集した『名曲の案内』(1956年)でイギリスとアメリカの作曲家についての項目をほぼすべて執筆していることからも察せられるように、1950年代には既に英米の音楽に強い評論家としての地位を築いていた。アンドレ・プレヴィンやネヴィル・マリナーといった親交のある音楽家の姿を日本に伝え、またジャクリーヌ・デュ・プレの熱烈なファンを以て自認する一方、ジョージ・バターワースを初めとして、ロジャー・キルター、アーネスト・ジョン・モーランといった知られざるイギリスの作曲家を紹介することも忘れなかった。 しかし何と言っても、飽きることなく彼が描き続けたのはディーリアスの姿ではなかったか。以下は、三浦が還暦を過ぎてようやく刊行した初めての評論集、『レコードのある部屋』の巻頭に収められた「夏の歌 グレッズのデリアス」からの引用である。 「デリアス(ディーリアスがもっとも原音に近いかと思う。デリウスと呼ぶのはドイツ語読みである)は、後半生を、パリのフォンテンブローから南へ40キロも奥まったグレ=シュール=ロワンという寒村に隠遁して、TV映画のように同地で亡くなった。彼の生涯は、その美しい交響詩のように一篇の詩であったが、晩年の不遇にもめげず、ヨークシァー人らしく、(頑固で知られている)、雄々しく生き抜いたのである。いまだに版を重ねているフェンビーさんの名著を読み、ロンドンでフェンビーさんにお目にかかることができたにもかかわらず、それは伏せられていたのである。デリアスの音楽をひそかに愛してきたわたしは、デリアスの生涯の終末を、崇高な悲愴美にたかまってゆくフィナーレとして見ていたのである。(中略)多少とも規模の大きな作品となると、変奏形式以外を使おうとしなかったデリアスの音楽は楽想の展開を失ってしまう。合唱のはいる「アパラチア」なども、チェロ群による動機が名状しがたい期待とサスペンスを、ぞくぞくするほど、呼びさますのだが、(この曲の録音を死の直前に行ったサー・ジョン・バルビローリのリハーサル風景では、必死になってこの動機をリハースさせている)、あとは何もおきないのである。この動機をきくつど、わたしは期待に胸がつまるのだが、もちろん、何も起きはしないのだ。ついに、わたしは、われわれの人生もこのようなものであるのかも知れない、少なくとも自分はそうだと思って聴くようになった」 ここに、三浦の評論世界のほぼすべてがある(唯一欠けているのは、「人の心を暖める」エピソードである)。彼はしばしば、原音に近いカタカナ表記の模索から文章を書き起こした。人物を描く前提として民族性に配慮するのも彼のいつものやり方であるし、洋書を情報源としているのは自他共に認める「海外屋」の真骨頂である。そして何よりも、彼は「何も起きはしない」音楽を好んだ。それ故にイギリス音楽を、中でもディーリアスを愛したのであろう。 こうした軽妙な、或いは平穏無事な音楽への愛情は、イギリス音楽にとどまらず他の国の音楽にも及んでいる。例えば、彼はクラウディオ・アバドの「リリカルなマーラー」に共感していた。以下の引用文も、海外の評論を参照し、英単語に込められた意味を丹念に探っているあたりなど、典型的な三浦の文章と言える。また、単に海外での評価に追随するのでなく、それと自らの感覚とを対比させているところにも注意されたい。「海外屋」は、ただヨコに書かれたものをタテに直すような仕事をしていたのではなかった。 「『タイムズ』紙では、『ニュー・グローヴ』の主幹でモーツァルティアンとして知られるスタンリー・サディーが演奏評を書いている。ミダシは<リリカル・マーラー>とある/──マーラーの≪第五交響曲≫が、嬰ハ短調の荒々しく厳しいものから、嬰ニ長調の輝かしく明るいものへの経過を表しているとするならば、水曜日の夜のプロムスの公演における唯一の欠点は、その旅がその距離を充分にカヴァーしていなかったということであった。なぜならば、クラウディオ・アバドは、あの冷酷な冒頭の楽章を緩く沈鬱な重い足どりで演奏したとしても、音楽のあの暗い底にまで完全に届いたとはいいがたかった。彼がふったすべてに純粋にリリカルな温かみが浸透していたからである/──おそらく、もっと進んで醜さを認めようとする指揮者のみが、マーラーの精神的な旅に、そのマクシマムな叙事詩的性格を与えることができるというものだろう。(中略、以下三浦の見解)マーラーの音楽には“醜いもの”が、そこかしこにあるということは、むこうの音楽評論家の書くものの中に、かなりひんぱんに見うけられる。“アグリー”という言葉には、いろんな意味が含まれているらしく、「醜い」の訳語だけで代表させるわけにはいかないらしい。「ぶざまな、ぶかっこうな、いまわしい、たちの悪い、やっかいな」等々の意味がこの一つの単語の中に棲息しているらしいのである。マーラーが子供のころ、しょっちゅう耳にしたという兵営のラッパの音のエコーが、彼の交響曲のなかでもきこえてくるが、むこうの人の感覚によれば「あれもアグリーなんだ」そうだ。われわれ、少なくともぼくは、あのラッパのエコーがそれほどアグリーには感じないんだよな、困ったことに/(中略)ぼくはアバドのマーラーを聴くと、当惑しないでマーラーを聴くことができる。アバドが、≪第五交響曲≫で“もっと進んで醜さ(アグリネス)を認めよう”としなかったことに感謝したい気持ちだし、アバドの「リリカルなマーラー」により多くの共感を覚えるのである」 リリカルで軽妙、平穏無事な音楽の対極に位置する重厚長大な音楽として三浦が想定していたのは、恐らくベートーヴェンであったろう。三浦は言う。「わたしにいわせると、年の暮れにベートーヴェンの「第九」を年間行事のように聴きにくる人の気持ちがわからない。あのようにフルフィルされた作品を聴くことは、とりわけ年の暮れには堪えがたいことではあるまいか?」 上に挙げた音楽家の他にも三浦は多くの音楽家を愛したが、中でも筆頭に挙げられるのはトマス・ビーチャムとデニス・ブレインであろう。「いかに莫大な名声と巨億の富を手に入れようとも、同時代の作曲家との創造活動に参加しなかった指揮者の生涯は空しいといわねばなるまい」と述べる三浦にとって、ディーリアスの擁護者であったビーチャムはその条件を満たしており、また彼は、三浦の愛するウィットに溢れたエピソードも極めて豊富な人物であって、三浦にとって理想の音楽家であったようにも思われる。そのビーチャムが自ら創設したロイヤル・フィルの首席ホルン奏者に抜擢したのがブレインであった。交通事故で早世してしまったブレインの「豊麗でメロウな音」を三浦は愛し、繰り返し取り上げて文章にしている。 三浦の支持した音楽家とその音楽に続いては、彼が「ひじょうに反対」した音楽を求める段となるべきところだが、彼が何かに非常に反対することはほとんどなかったように見うけられる。デュ・プレを熱愛する余り、その悲劇を嘆いて「豆タンクのような男の性急な求婚を退けていたら、彼女のチェロは今なお輝かしく鳴っていただろうに!」と憤慨しているが、これはご愛敬というものであろう。あえて「非常な反対」を求めるなら、スイス・ロマンド管弦楽団(OSR)について書いた「アンセルメは後継者を育成しなかったので、その没後サヴァリッシュ、シュタインらのドイツ系指揮者が、アンセルメが OSR に築いた伝統を壊滅するのに貢献した」という一文が挙げられようか。同様の文章は『レコードを聴くひととき ぱあと2』や『アフター・アワーズ』にも見られ、アンセルメの作り上げた響きが失われたことを三浦は強く惜しんだ。イギリス音楽のみならず、彼がフランスの音楽をも愛したことがここに表れている。
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