イギリス領、アメリカ合衆国初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 08:11 UTC 版)
「ハドソン郡 (ニュージャージー州)」の記事における「イギリス領、アメリカ合衆国初期」の解説
1675年、ウェストミンスター条約により、オランダからの移管が決着し、この地域はイギリス領東ジャージーのバーゲン管理地区となった。バーゲン郡が西に拡張された後、郡庁所在地はハッケンサックに移された。小さな村や農園が、川向こうで成長するニューヨーク市に物資を供給した。中でもニューヨーク湾上流の広大な岩礁から獲れた牡蠣など生鮮品が、マンハッタンのウィホーケン通りで売られた。アメリカ独立戦争時、この地域はイギリス軍の支配下に入り、ブルズフェリーの駐屯地やバーゲンネックの砦があった。植民地軍は高台を使って敵の動きを偵察した。1779年にイギリス軍の砦を急襲したポーラスフックの戦いは、革命軍の勝利と見られ、大いに士気を挙げた。ジャージーシティ中心街の多くの通りには、独立戦争時の人物の名前が付けられている。例えば、マーサー、グリーン、ウェイン、バリックなどである。1804年、ウィホーケンは有名な決闘の場になった。アメリカ建国に貢献したアレクサンダー・ハミルトンとアーロン・バーの決闘だった。ニューヨーク州との水際を巡った境界紛争で(ニューヨーク州は高潮位線までの支配権を求めた。また渡し船の利権を認めた)開発が妨げられたが、ポーラスフックやホーボーケンではいくらか都会化が進み、裕福なニューヨーク市民が余暇を過ごす地点になった。モリス運河、初期の蒸気鉄道、ニューヨーク港の開発がさらなる成長を促した。1840年9月、ハドソン郡はバーゲン郡から分離し、エセックス郡の一部すなわちニューバルバドス・ネックを追加することで設立された。19世紀半ばまで、ハドソン郡は地下鉄道 (秘密結社)と一体の役割を演じた。ジャージーシティに集まる4つのルートがあった。
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