境界紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 14:24 UTC 版)
メリーランド植民地とバージニアは長い間境界紛争があり、その一部は今日でも続いている。この紛争では、チャールズ1世が1632年にメリーランド男爵ジョージ・カルバートに認めた勅許の境界が問題となった。この勅許では北緯40度線とポトマック川の間の地域の封建的な権利を認めていたが、バージニアもその地域の所有権を主張した。この紛争地域の大半は1930年に解決した。しかし、メリーランド州とバージニア州はポトマック川とその水権の利用についてまだ揉めている。
※この「境界紛争」の解説は、「バージニア州の歴史」の解説の一部です。
「境界紛争」を含む「バージニア州の歴史」の記事については、「バージニア州の歴史」の概要を参照ください。
境界紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/12 23:21 UTC 版)
「モンロー郡 (ミシガン州)」の記事における「境界紛争」の解説
「トレド戦争」も参照 現在のオハイオ州トレド市が1833年に法人化されたとき、ミシガン準州のモンロー郡に属していた。1787年の北西部条例で当初の境界はミシガン湖の最南端を通る東西方向の線と規定されていたので、モーミー川河口周辺の小さな帯状地はミシガン準州の管轄圏内にあった。1803年、北西部領土の中でオハイオが最初に州に昇格し、その北側境界をこの地域が含まれる形で主張した。1805年にミシガン準州が正式に組織化されたとき、その領域にはやはりこの地域が含まれていた。1833年から1836年、トレドはモンロー郡に含まれており、トレド・ストリップと呼ばれた地域を巡ってミシガン準州とオハイオ州との間で、トレド戦争と呼ばれる境界紛争が起きた。1836年後半、ミシガン準州の「少年知事」スティーブンス・T・メイソンを嫌っていたアンドリュー・ジャクソン大統領が、オハイオ州に有利な裁定を下し、トレド・ストリップはオハイオ州のものとなった。ミシガンはその代償として当時は荒れ地と考えられていたアッパー半島を手に入れ、ミシガンは1837年1月26日に州に昇格した。トレド市がモンロー郡に入っていた当時、トレド市は面積でも人口でもモンロー市を越えていた。新しい州境線標識が建てられた1915年、ミシガン州知事のウッドブリッジ・ネイサン・フェリスとオハイオ州知事のフランク・B・ウィリスが境界紛争の休戦を祝った。 トレド戦争が終わった時の新しい州境はほぼ北緯41度44分とされ、モーミー川河口の直ぐ北に引かれた。これでモーミー川とトレド市はオハイオ州となったが、ミシガン州にとって思わぬ結果も生んだ。その州境はより小さなオタワ川を横切っており、「失われた半島」と呼ばれる小さな飛び地を作った(座標では北緯41度44分08.3秒西経83度27分35.6秒)。この小さな半島に住む数少ない住人は、ミシガン州本土に行くために一旦南にあるオハイオ州のワシントン郡区に入り、車で10分で北に戻ることが必要になった。「失われた半島」はエリー郡区が管理しており、半島の大半はマリーナになっている。 モンロー郡の領域は1837年から1973年まで固定されていたが、トレド戦争から136年経ったこの年に最後に残っていた論点が解決された。エリー湖遠くに浮かぶ小さな無人島のタートル島は、島の灯台が閉鎖された後に何十年も所有権を巡った論争が続いていた。この島は長くミシガン州が支配していたが、オハイオ州が論争を続けていた。1973年2月22日、合意が形成され、モンロー郡とオハイオ州ルーカス郡で島を分け合う形で州境が引き直され、これが最後の州境修正となった。エリー郡区がタートル島のミシガン川の管轄権を持ち、トレド市が残り半分を支配することとされた。この島に関することはどちらの側も合意しようとせず、論争の種であり続けている。今日の島には幾つか放棄された建造物があり、新しい建物の建設は裁判所命令で停止させられている。
※この「境界紛争」の解説は、「モンロー郡 (ミシガン州)」の解説の一部です。
「境界紛争」を含む「モンロー郡 (ミシガン州)」の記事については、「モンロー郡 (ミシガン州)」の概要を参照ください。
- 境界紛争のページへのリンク