ペンシルベニアとの境界紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/19 02:08 UTC 版)
「チャールズ・カルバート (第3代ボルティモア男爵)」の記事における「ペンシルベニアとの境界紛争」の解説
カルバートは幾つかの問題に加えて、ウィリアム・ペン(1644年-1718年)が所有する北の植民地との深刻な境界紛争にも巻き込まれた。すなわちメリーランド植民地とペンシルベニア植民地の境界に関する論争だった。1681年国王チャールズ2世が、メリーランドの北にあるかなりの広さがあるが、その定義があいまいな領地を認めた。ペンはメリーランドの領域に入る北緯40度線より南でその首都の建設を始めた。ペンとカルバートは2回会見して交渉したが、合意には至らなかった。この論争はカルバートとペンの存命中には決着が付かず、1769年になってやっと解決されることになった。
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