境界紛争の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/01 08:02 UTC 版)
「ペン=カルバート境界紛争」の記事における「境界紛争の歴史」の解説
ペンは彼の新しいペンシルバニア植民地にチェサピーク湾に出られるアクセスがほしいと考えていた。一方でボルチモア男爵はペンシルバニアの南側境界線は北緯40度線であることを譲らず、また、1632年勅許によりメリーランドを得た際にデラウェア湾にある陸地もこれに含まれていると主張した。両者は合意できず、ペンは裁判にすることを決めた。ペンとボルチモア男爵の両者は英国に戻り裁判に出席した。この時までにヨーク公はジェームズ2世として王位に就いていた。ペンはジェームズ2世と自分は親しく、また盟友でもあったので裁判が自分に有利に進むと考えていた。彼は裁判でツヴァーネンデール植民地について、メリーランド勅許は、耕作されていない土地のみが対象であるのに、デラウェア湾付近は勅許前にすでにオランダ人が建設した植民地により耕作されていたと述べた。このことは、1659年にメリーランドがその自領内にオランダ人が入植していることに関して抗議を行ったときにオランダ人により主張された反論そのものでもあった。これは決定的なものだった。 貿易・プランテーション委員会 (The Committee for Trade and Plantations) はバルチモア(メリーランド)勅許は耕作されていない土地に与えられたものであり、先んじてその領域にキリスト教信者が存在したのであれば、そこはボルチモア男爵のものではないということを追認した。1685年11月7日、国王は妥協案を示した。それは、チェサピーク湾とデラウェア湾の間の領土はヘンロペン岬を通り西に向かう直線と、北緯40度線から引いた南北線により半分ずつに分けるというものだった。メリーランド側(ボルチモア男爵)はまだこの境界の測量・標識設置を行っていなかったが、ジェームズ2世はメリーランドの北側の境界は依然北緯40度線であると定めた。1688年にジェームズ2世はペンに対して新しく勅許状を作成しデラウェアの持ち分の再定義を行った。 1701年7月20日、下流三郡(現在のデラウェア)の住民はペンに対し、(ペンシルバニアと一緒ではなく)独自の議会や統轄する役所を持ちたいという内容の請願を行った。ペンは8月28日にこれを認め、いずれデラウェアはペンシルバニアから分離して一つの植民地となるであろうと予想し、ペンシルバニアとこの新しい植民地の境界となる12マイル円の測量および標識設置を命じた。ペンシルバニア側はアイザック・テイラー、ニューキャッスルからはトーマス・ピアソンズが選ばれ共同で測量を行った。1701年9月に彼らはニューキャッスルの堤防から測量をはじめ、10月には円弧部分の標識設置も終えた。この測量は多くの誤差を持った稚拙なものだったが、その後多大な時間をかけて解決に至るこの長期論争の中で、12マイル円を正確に決めようとする最初の試みだった。 1709年にボルチモア男爵はジェームズ2世の娘で当時のグレートブリテン女王アンに対し、1683年にペンに対して行われた勅許のうち、北緯40度線以南の領土に関して取り消しを行うよう請願を行った。ペンはこれに反対したが、アンは1710年6月23日にこれを却下した。女王によるこの決定の後、ペンシルバニアとデラウェアの合同議会はテイラーとピアソンズの測量による境界を承認した。だが根底にある問題は解決していなかった。メリーランド植民地政府がデラウェア域内の土地をメリーランド住民に勝手に払い下げを行うことが続いており、双方の保安官同士が衝突を起こすなどの事件が発生した。このためデラウェアの議会は1年前に行ったばかりの12マイル円境界の承認を取り消すに至った。 やがて紛争当事者が死亡、ボルチモア男爵は1715年に、ペンは1718年にそれぞれ死んだ。ボルチモア男爵の息子の第4代ボルチモア男爵ベネディクト・カルバートは父の死の2か月後に急死してしまったので、境界問題はメリーランド側が第4代ボルチモア男爵の息子で第3代ボルチモア男爵の孫の第5代ボルチモア男爵チャールズ・カルバート(英語版)、ペンシルバニア側がペンの息子ジョン(英語版)、トマス(英語版)、リチャード(英語版)の3人に引き継がれることになった。
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