コネチカット境界紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:48 UTC 版)
「エドマンド・アンドロス」の記事における「コネチカット境界紛争」の解説
アンドロスは隣接するコネチカット植民地の境界紛争にも巻き込まれた。オランダが当初その領土の東境界をコネチカット川まで拡張していたが、この主張は1650年のハートフォード条約で取り下げられ、1664年にはハドソン川から東に20マイル (32 km) の線を境界とするまで引き下げられていた。ヨーク公の領土に対する主張はこれを認めず、1675年、アンドロスはコネチカットの当局に対し、コネチカットの首都ハートフォードまでも含める領土の領有権を主張する意図を伝えた。コネチカットの指導者達はコネチカットの境界が後に改定されたと指摘したが、アンドロスはその主張に拘り、それら改定にはヨークが受けた払下げが優先すると論じた。1675年7月にフィリップ王戦争が勃発したことを利用し、ヨーク公の主張を確定させるために小さな軍隊を乗せた船でコネチカットに行く口実にした。7月8日、コネチカット川河口のセイブルックに到着したとき、そこの砦がコネチカットの民兵隊に占領されているのを発見した。民兵隊はイングランドの旗を靡かせていた。アンドロスは上陸し、砦の指揮官と短時間会話し、その任務を理解し、ニューヨーク市に戻った。これが領土の主張を確認しようとしたアンドロスの行動の全てだったが、後にニューヨーク当局にその主張を確認させようとした時に、コネチカットでこのことが思い出された。
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