コネチカットの植民地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/02 09:46 UTC 版)
「コネチカット州の歴史」の記事における「コネチカットの植民地」の解説
ヨーロッパ人が入ってくる前のコネチカットには多くのアルゴンキン語族インディアンが住んでいた。最初のヨーロッパ人はオランダ人だった。1614年、アドリアン・ブロックがロングアイランド・サウンドの海岸を探検し、コネチカット川を遡って少なくともパーク川との合流点まで行った。そこが現在のハートフォードである。1623年までに新しく設立されたオランダ西インド会社がそこで定期的に毛皮の交易を始め、10年後にはピクォート族や拡張しつつあったイギリスの植民地の攻撃から守るために砦を造った。砦の名前は「希望の家」(またはホープ砦)とされたが、イギリスの進出は止められずハートフォード条約によって撤退に合意し、1654年までに出て行った。 現在のマサチューセッツ州にあったマサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地からイギリス人が入ってきて1633年にはウィンザー、1634年にはウェザーズフィールド、さらに1636年にはトマス・フーカーがハートフォードに開拓地を築いた。1636年にはマサチューセッツ湾植民地がコネチカット川河口にセイブルック砦を築いた。別のピューリタン集団が1637年にニューヘイブン植民地を造った。マサチューセッツ湾植民地はコネチカットやロードアイランドにできた植民地をその政体の中に吸収しようとはしなかった。当時は交通も困難であったので対話も難しく、非国教徒の開拓地はやるがままに任せておく方が都合よかった。 ウィンザーにあったイギリス人開拓地と交易拠点は、オランダの交易拠点が上流にあり内陸のインディアンと交流しやすかったので、特にこれを脅かしていた。1633年の秋から冬にかけてオランダ人の1隊が現在のマサチューセッツ州スプリングフィールドまで川を遡り、インディアンに贈り物をしてハートフォードにあったオランダの交易拠点まで交易品を持ってくるよう説得を試みた。この時、不幸なことにオランダ人は天然痘を広めてしまい、その冬が終わるまでにその渓谷一帯にいたインディアンの人口は8,000人以上から2,000人足らずまで減少した。このことで肥沃な渓谷地一帯はその後の開拓には好都合になった。
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