有名な決闘とは? わかりやすく解説

有名な決闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 09:49 UTC 版)

「決闘」記事における「有名な決闘」の解説

30人の戦い1351年3月26日ブルターニュ公国プロエルメル 勝者ジャン・ド・ボーマノアール(フランス語版)以下30名のフランス軍騎士従騎士 敗者ロバート・ベンバラ(英語版) †以下30名のイングランド騎士従騎士 ブルターニュ継承戦争中にジャン・ド・ボーマノアール(フランス語版)らフランス側騎士30名とロバート・ベンバラ(英語版)らイングランド騎士30名がプロエルメル行った決闘フランス側勝利に終わるが、両陣営とも多く死傷者出した。この決闘年代記ジャン・フロワサールによって感動的に語り伝えられ、「双方戦士たちは、まるでローランオリヴィエのように勇敢だった」と称えられている。 ジャルナックの決闘1547年7月10日フランス王国サン=ジェルマン=アン=レー 勝者ジャルナック男爵ギー・ド・シャボ(フランス語版敗者シャテニュレ卿フランソワ・ド・ヴィヴォンヌ(フランス語版) † シャテニュレ卿がジャルナック男爵近親相姦ほのめかしたことについてジャルナック男爵名誉棄損されたとしてフランス王フランソワ1世訴え出た国王側近たちは決闘裁判進言したが、国王愛人義理の息子にあたるジャルナック男爵の身を案じてそれを退け、ジャルナック男爵なだめて場を収めた(シャテニュレ卿は当代随一剣の達人と言われていた)。しかしシャテニュレ卿の友人だったアンリ2世国王に即位するとジャルナック男爵決闘命じられた。国王貴族市民見物する中、2人決闘が行われる。誰もがシャテニュレ卿の勝利を予想したが、剣術の師から不意打ち仕方習っていたジャルナック男爵は、何度か剣を合わせた後、シャテニュレ卿が突いて出たのを躱して相手右足膝裏の腱を素早く突いて転ばせ、左足の腱も斬って戦闘不能にした。 ジャルナック男爵国王向かってこれで自分の名誉が晴らされたのではないかと問うたが、面白くない国王は何も答えなかった。敗北したことで怒ったシャテニュレ卿は罪を認めることを拒否し、傷に巻かれ包帯はぎ取り、後に負傷原因死去した。この決闘で敵に予期せぬ打撃与えることを指して「クー・ド・ジャルナック(フランス語版)」という言葉生まれた巌流島の決闘1612年5月13日慶長十七四月十三日山口県下関市巌流島船島勝者宮本武蔵 敗者佐々木小次郎遅れて現れ宮本武蔵佐々木小次郎が刀の鞘を投げ捨てて挑むも、武蔵は鞘を捨てたことについて「小次郎敗れたりと言い削って作った木刀で彼を打ち殺したという『二天記』に基づく描写で有名な決闘。一方武蔵養子宮本伊織小倉立てた武蔵顕彰碑』には2人同時に到着し、真剣を持った小次郎武蔵木刀殺害したことが記されている。 決闘理由は『二天記によれば小次郎小倉にいることを知って武蔵側から決闘申し込んだとあり、『沼田家記によれば二刀流武蔵巌流兵法小次郎は共に豊前小倉藩細川家剣術指南役をしていたが、双方弟子優劣争ったために師匠同士巌流島決闘することになったとある。 『沼田家記によれば武蔵は「一対一」の約束無視して密かに弟子たち島内忍ばせており、仕合の後息を吹き返し小次郎武蔵弟子たち一斉に打ちかかって殺害し事情知った小次郎弟子たち怒って武蔵殺そうとしたが、武蔵細川家家老門司城主だった沼田延元助け求めて匿ってもらったことが記されている。『西遊雑記』によれば武蔵弟子数人引き連れて島に渡るのを見た漁民達が「岸龍」(小次郎)をとどめようとしたが「武士約束を破るは恥辱と言って島へ向かい集団一斉に襲いかかってきた武蔵弟子たちにより殺害されたという。漁民たちは岩龍義心称え以来ここは「岩龍島」と呼ばれるようになったとされる。 「佐々木小次郎」の名ははっきりしたものではなく小倉碑文』には「巌流」とあり、「小次良(郎)」の名は『武公伝』が初出で、佐々木姓は『本朝武芸小伝』から来ていると見られる巌流島決闘場所に選ばれたことについて吉村豊雄小倉藩細川家領地長府藩主毛利家領地曖昧な無人島であったから大名家による取り締まり対象ならない地として選ばれたのではと推測する。現在島には武蔵小次郎決闘する像がある。 高田馬場の決闘1694年3月6日午前11時頃(元禄七年二月十一日四ッ半)東京都新宿区西早稲田三丁目高田馬場勝者中山安兵衛(後の堀部安兵衛菅野六郎左衛門敗者村上庄左衛門村上三郎右衛門中津川祐見 † 赤穂四十七士一人堀部安兵衛武庸参加した決闘として著名伊予西条藩士菅野六郎左衛門と同藩士村上庄左衛門口論になって高田馬場での決闘申し合わせた菅野叔父甥の義を結んでいた中山安兵衛(後の堀部安兵衛)、村上は弟の村上三郎左衛門中津川祐見をそれぞれ助っ人に付けて立ち会った安兵衛村上三郎右衛門中津川祐見を斬り、菅野村上庄左衛門から眉間を斬られたが村上両手切り落とし安兵衛村上止め刺した戦いの後安兵衛深手負った菅野介抱あたったが、菅野もまもなく息を引き取った。 この決闘安兵衛有名人になり、赤穂藩浅野家の家臣堀部弥兵衛金丸から婿入り懇望され堀部安兵衛となり浅野家に仕えることになる。実際に安兵衛が斬ったのは3人か4人(村上郎党有無)だったが、後に脚色され高田馬場18人斬りとして語り継がれた。 ハミルトンモーン決闘英語版1712年11月15日 グレートブリテン王国ロンドンハイド・パーク 勝者4代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトン敗者4代モーン男爵英語版)チャールズ・モーン(英語版) † ハミルトン公当時議会優勢占めていたトーリー党有力者であり、モーン卿はその対立政党ホイッグ党有力者政治的対立関係にあった。また第2代マクルズフィールド伯爵チャールズ・ジェラードの土地相続めぐって利害対立関係にあった当時トーリー党政権だったため不利な立場に立たされていたモーン卿が「紳士としての名誉を傷つけられた」としてハミルトン公決闘申し込みハミルトン公応じたことで剣による決闘となった勝負ハミルトン公の剣がモーン卿の腹を貫いて倒したことで決したが、モーン卿の介添人ジョージ・マッカートニー英語版)とハミルトン公介添人ジョン・ハミルトンも剣を抜いて争いになり、ジョン・ハミルトンに剣を叩き落されマッカートニーは剣を拾うやハミルトン公刺したハミルトン公出血多量死亡敗れたモーン卿も即死していたので当事者双方死亡する結果終わったその後マッカートニー国外へ逃れ逮捕されジョン・ハミルトンマッカートニー殺人者批判したが、ホイッグ党政権になるとマッカートニー帰国して自分公爵殺していないという主張押し通した小ピットティアニー決闘1798年5月27日 グレートブリテン王国ロンドンウィンブルドンプットニー・ヒース(英語版小ピット英国首相) ジョージ・ティアニー(英語版小ピット当時英国首相トーリー党所属ティアニーチャールズ・ジェームズ・フォックス死後ピット外交政策のもっとも著名な反対者となったホイッグ党所属庶民院議員だった。ピットティアニーのことを愛国心足りない批判したことがきっかけで拳銃による決闘が行われることになったどちらも負傷せず終わった バーハミルトン決闘英語版1804年7月11日 アメリカ合衆国ニュージャージー州ウィーホーケン英語版勝者アーロン・バー米国副大統領敗者アレクサンダー・ハミルトンバー当時米国副大統領であり、民主共和党所属ハミルトンアメリカ合衆国建国の父一人であり、連邦党所属しており、両者政治的敵対関係にあったハミルトンの「バー氏は危険な人物なので、信用して政府の手綱を任せるべきではない」という批判についてバー発言撤回求めたが、ハミルトンは「表現政治的対立者の間では許される範囲の物」として撤回拒否その後何度やり取りがあったが、発言撤回されなかったのでバーハミルトン決闘申し込みハミルトン嫌がりながらもそれに応じた勝負一発決まりハミルトン撃たれ倒れバー友人用意した船に乗ってその場から逃れたハミルトン2日後死去バーニュージャージー州から殺人罪問われたが捕まることはなかった。 ジャクソンディキンソン決闘1806年5月30日 アメリカ合衆国ケンタッキー州アデアビル(英語版勝者アンドリュー・ジャクソン(後の米国大統領敗者チャールズ・ディキンソン(英語版) † 後のアメリカ大統領アンドリュー・ジャクソンが行った決闘弁護士ディキンソンジャクソンの妻を中傷したことがきっかけで決闘となった2人は共に拳銃名手だった。合図があるとディキンソン先に発砲しジャクソン心臓命中させたように見えたが、ジャクソン倒れず「そんなはずはない」とディキンソン叫んだところをジャクソン撃った弾がディキンソン致命傷を負わせディキンソンその場倒れて死亡ディキンソンの弾は確かにジャクソン命中していたが、心臓からは反れていたので致命傷ではなくジャクソン気合で耐えて相手射殺したという。 オコンネル決闘1815年2月2日 イギリスアイルランドダブリン郊外 勝者ダニエル・オコンネル 敗者ジョン・デステール † アイルランド民族運動家でアイルランド人大同団結が必要と考えオコンネルアイルランド協会批判し、これに協会のジョン・デステール(John D'Esterre)が怒って決闘になった最初に撃ったデステールの弾は外れ次に撃ったオコンネルの弾はデステールの股を撃ち抜いた。デステールは立ち会った医師搬送されたが、翌日死去良心の呵責感じたオコンネル決闘二度とやらない誓ったという。 ウェリントン=ウィンチルシー決闘1829年3月23日 イギリスロンドンハイド・パーク 初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー英国首相第10代ウィンチルシー伯爵ジョージ・フィンチ=ハットン英語版ウェリントン公当時トーリー党政権首相ウィンチルシー伯ホイッグ党所属政治家熱烈なプロテスタントであり、両者カトリック救済法案の是非を巡って対立し、それがこじれて決闘になった。「撃て」の声がかかると公は伯に銃口向けたが、伯は銃口を空に向けたままだったため、公も撃つのをためらい、ここで介添人が伯の謝罪の手紙を公に渡して公が受け入れて決闘双方無傷のまま終了したガロア決闘1832年5月30日フランス王国ジャンティイ 勝者ペシュー・デルヴァンヴィル 敗者エヴァリスト・ガロア † 群と代数方程式の関係を示すガロア理論知られる数学者ガロアはこの決闘銃弾受けて重傷負い、翌5月31日腹膜炎により20歳にして死去した決闘詳細不明な点が多いが、大デュマ回想録によれば決闘相手ガロア同じく人民の友」のメンバー共和主義者だったペシュー・デルヴァンヴィル(Pescheux d'Herbinville)だったという。決闘場所はパウル・デュピュイ(フランス語版)の書いた伝記によればジャンティイグラシエールの沼の近くだったという。決闘理由恋愛のもつれ説、警察陰謀説自殺説などがあるが、当人死去直前残した言葉などから恋愛説が有力である。 プーシキン決闘1837年2月8日旧暦1月27日ロシア帝国サンクトペテルブルクチョールナヤ・レチカ(ロシア語版勝者ジョルジュ・ダンテス 敗者アレクサンドル・プーシキン † 「ロシア文学の父」と呼ばれる詩人・作家プーシキンは妻ナターリアと噂のある近衛騎兵将校ダンテス決闘及んだ合図があった後ダンテス先に発砲しプーシキン命中駆け寄る介添人払いのけたプーシキンは肘をついて身を起こし待て、まだ撃つだけの力は残っている」と叫んだ。それを聞いたダンテスは腕で胸をかばう態勢プーシキン発砲待ったプーシキン発砲した弾はダンテスの腕に命中したが、胸には届かず致命傷にならなかった。プーシキンはそこで力尽きて倒れ2日後死去したラッサール決闘1864年8月28日 スイスカルージュ 勝者フォン・ラコヴィッツァ伯爵英語版敗者フェルディナント・ラッサールラッサール全ドイツ労働者協会会長務め社会主義者。ラコヴィッツァ伯はワラキア貴族ラッサールはヘレーネ・フォン・デンニゲス(ドイツ語版)との恋愛を巡るもつれから彼女の父であるバイエルン外交官ヴィルヘルム・フォン・デンニゲス(ドイツ語版)に決闘申し込んだが、デンニゲスはヘレーネ婚約者ラコヴィッツァ伯が代わりに決闘応じると返答しラッサールはそれを承諾決闘3つ数えてから撃つことになっていたが、「2(ツヴァイ)」の後「3(ドライ)」を待たずにラコヴィッツァ伯が発砲してラッサール腹部に弾を命中させた。続いてラッサール発砲したが当たらなかった。ラッサール立ち会った医師搬送されたが、3日後に死去した

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