有名な決闘
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30人の戦い1351年3月26日ブルターニュ公国プロエルメル 勝者ジャン・ド・ボーマノアール(フランス語版)以下30名のフランス軍騎士・従騎士 敗者ロバート・ベンバラ(英語版) †以下30名のイングランド軍騎士・従騎士 ブルターニュ継承戦争中にジャン・ド・ボーマノアール(フランス語版)らフランス側騎士30名とロバート・ベンバラ(英語版)らイングランド側騎士30名がプロエルメルで行った決闘。フランス側の勝利に終わるが、両陣営とも多くの死傷者を出した。この決闘は年代記者ジャン・フロワサールによって感動的に語り伝えられ、「双方の戦士たちは、まるでローランやオリヴィエのように勇敢だった」と称えられている。 ジャルナックの決闘1547年7月10日フランス王国サン=ジェルマン=アン=レー 勝者ジャルナック男爵ギー・ド・シャボ(フランス語版) 敗者シャテニュレ卿フランソワ・ド・ヴィヴォンヌ(フランス語版) † シャテニュレ卿がジャルナック男爵の近親相姦をほのめかしたことについてジャルナック男爵は名誉棄損されたとしてフランス王フランソワ1世に訴え出た。国王の側近たちは決闘裁判を進言したが、国王は愛人の義理の息子にあたるジャルナック男爵の身を案じてそれを退け、ジャルナック男爵をなだめて場を収めた(シャテニュレ卿は当代随一の剣の達人と言われていた)。しかしシャテニュレ卿の友人だったアンリ2世が国王に即位するとジャルナック男爵は決闘を命じられた。国王や貴族、市民が見物する中、2人の決闘が行われる。誰もがシャテニュレ卿の勝利を予想したが、剣術の師から不意打ちの仕方を習っていたジャルナック男爵は、何度か剣を合わせた後、シャテニュレ卿が突いて出たのを躱して相手の右足膝裏の腱を素早く突いて転ばせ、左足の腱も斬って戦闘不能にした。 ジャルナック男爵は国王に向かってこれで自分の名誉が晴らされたのではないかと問うたが、面白くない国王は何も答えなかった。敗北したことで怒ったシャテニュレ卿は罪を認めることを拒否し、傷に巻かれた包帯をはぎ取り、後に負傷が原因で死去した。この決闘で敵に予期せぬ打撃を与えることを指して「クー・ド・ジャルナック(フランス語版)」という言葉が生まれた。 巌流島の決闘1612年5月13日(慶長十七年四月十三日)山口県下関市巌流島(船島) 勝者宮本武蔵 敗者佐々木小次郎 † 遅れて現れた宮本武蔵に佐々木小次郎が刀の鞘を投げ捨てて挑むも、武蔵は鞘を捨てたことについて「小次郎、敗れたり」と言い、櫓を削って作った木刀で彼を打ち殺したという『二天記』に基づく描写で有名な決闘。一方武蔵の養子宮本伊織が小倉に立てた『武蔵顕彰碑』には2人は同時に到着し、真剣を持った小次郎を武蔵が木刀で殺害したことが記されている。 決闘の理由は『二天記』によれば小次郎が小倉にいることを知って武蔵の側から決闘を申し込んだとあり、『沼田家記』によれば、二刀流の武蔵と巌流兵法の小次郎は共に豊前小倉藩細川家で剣術指南役をしていたが、双方の弟子が優劣を争ったために師匠同士が巌流島で決闘することになったとある。 『沼田家記』によれば武蔵は「一対一」の約束を無視して密かに弟子たちを島内に忍ばせており、仕合の後息を吹き返した小次郎を武蔵の弟子たちが一斉に打ちかかって殺害し、事情を知った小次郎の弟子たちは怒って武蔵を殺そうとしたが、武蔵は細川家家老で門司城主だった沼田延元に助けを求めて匿ってもらったことが記されている。『西遊雑記』によれば武蔵が弟子数人を引き連れて島に渡るのを見た漁民達が「岸龍」(小次郎)をとどめようとしたが「武士が約束を破るは恥辱」と言って島へ向かい、集団で一斉に襲いかかってきた武蔵と弟子たちにより殺害されたという。漁民たちは岩龍の義心を称え以来ここは「岩龍島」と呼ばれるようになったとされる。 「佐々木小次郎」の名ははっきりしたものではなく『小倉碑文』には「巌流」とあり、「小次良(郎)」の名は『武公伝』が初出で、佐々木姓は『本朝武芸小伝』から来ていると見られる。巌流島が決闘場所に選ばれたことについて吉村豊雄は小倉藩主細川家の領地か長府藩主毛利家の領地か曖昧な無人島であったから大名家による取り締まりの対象にならない地として選ばれたのではと推測する。現在島には武蔵と小次郎が決闘する像がある。 高田馬場の決闘1694年3月6日午前11時頃(元禄七年二月十一日四ッ半)東京都新宿区西早稲田三丁目(高田馬場) 勝者中山安兵衛(後の堀部安兵衛)菅野六郎左衛門 † 敗者村上庄左衛門 †村上三郎右衛門 †中津川祐見 † 赤穂四十七士の一人堀部安兵衛武庸が参加した決闘として著名。伊予西条藩士菅野六郎左衛門と同藩士村上庄左衛門は口論になって高田馬場での決闘を申し合わせた。菅野は叔父甥の義を結んでいた中山安兵衛(後の堀部安兵衛)、村上は弟の村上三郎左衛門や中津川祐見をそれぞれ助っ人に付けて立ち会った。安兵衛が村上三郎右衛門と中津川祐見を斬り、菅野は村上庄左衛門から眉間を斬られたが村上の両手を切り落とし、安兵衛が村上に止めを刺した。戦いの後、安兵衛は深手を負った菅野の介抱にあたったが、菅野もまもなく息を引き取った。 この決闘で安兵衛は有名人になり、赤穂藩主浅野家の家臣堀部弥兵衛金丸から婿入りを懇望されて堀部安兵衛となり浅野家に仕えることになる。実際に安兵衛が斬ったのは3人か4人(村上の郎党の有無)だったが、後に脚色されて高田馬場18人斬りとして語り継がれた。 ハミルトン=モーン決闘(英語版)1712年11月15日 グレートブリテン王国ロンドンハイド・パーク 勝者第4代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトン † 敗者第4代モーン男爵(英語版)チャールズ・モーン(英語版) † ハミルトン公は当時議会で優勢を占めていたトーリー党の有力者であり、モーン卿はその対立政党ホイッグ党の有力者で政治的対立関係にあった。また第2代マクルズフィールド伯爵チャールズ・ジェラードの土地相続をめぐって利害対立関係にあった。当時トーリー党政権だったため不利な立場に立たされていたモーン卿が「紳士としての名誉を傷つけられた」としてハミルトン公に決闘を申し込み、ハミルトン公が応じたことで剣による決闘となった。勝負はハミルトン公の剣がモーン卿の腹を貫いて倒したことで決したが、モーン卿の介添人ジョージ・マッカートニー(英語版)とハミルトン公の介添人ジョン・ハミルトンも剣を抜いて争いになり、ジョン・ハミルトンに剣を叩き落されたマッカートニーは剣を拾うやハミルトン公を刺した。ハミルトン公は出血多量で死亡、敗れたモーン卿も即死していたので当事者双方が死亡する結果に終わった。その後マッカートニーは国外へ逃れ、逮捕されたジョン・ハミルトンはマッカートニーを殺人者と批判したが、ホイッグ党政権になるとマッカートニーは帰国して自分は公爵を殺していないという主張を押し通した。 小ピット=ティアニー決闘1798年5月27日 グレートブリテン王国ロンドンウィンブルドンプットニー・ヒース(英語版) 小ピット(英国首相) ジョージ・ティアニー(英語版) 小ピットは当時の英国首相でトーリー党所属。ティアニーはチャールズ・ジェームズ・フォックスの死後、ピットの外交政策のもっとも著名な反対者となったホイッグ党所属の庶民院議員だった。ピットがティアニーのことを愛国心が足りないと批判したことがきっかけで拳銃による決闘が行われることになった。どちらも負傷せず終わった バー=ハミルトン決闘(英語版)1804年7月11日 アメリカ合衆国ニュージャージー州ウィーホーケン(英語版) 勝者アーロン・バー(米国副大統領) 敗者アレクサンダー・ハミルトン † バーは当時の米国副大統領であり、民主共和党所属。ハミルトンはアメリカ合衆国建国の父の一人であり、連邦党に所属しており、両者は政治的敵対関係にあった。ハミルトンの「バー氏は危険な人物なので、信用して政府の手綱を任せるべきではない」という批判についてバーは発言の撤回を求めたが、ハミルトンは「表現は政治的対立者の間では許される範囲の物」として撤回を拒否。その後も何度かやり取りがあったが、発言撤回されなかったのでバーはハミルトンに決闘を申し込み、ハミルトンは嫌がりながらもそれに応じた。勝負は一発で決まりハミルトンが撃たれて倒れ、バーは友人の用意した船に乗ってその場から逃れた。ハミルトンは2日後に死去、バーはニュージャージー州から殺人罪に問われたが捕まることはなかった。 ジャクソン=ディキンソン決闘1806年5月30日 アメリカ合衆国ケンタッキー州アデアビル(英語版) 勝者アンドリュー・ジャクソン(後の米国大統領) 敗者チャールズ・ディキンソン(英語版) † 後のアメリカ大統領アンドリュー・ジャクソンが行った決闘。弁護士のディキンソンがジャクソンの妻を中傷したことがきっかけで決闘となった。2人は共に拳銃の名手だった。合図があるとディキンソンが先に発砲し、ジャクソンの心臓に命中させたように見えたが、ジャクソンは倒れず「そんなはずはない」とディキンソンが叫んだところをジャクソンの撃った弾がディキンソンに致命傷を負わせディキンソンはその場に倒れて死亡。ディキンソンの弾は確かにジャクソンに命中していたが、心臓からは反れていたので致命傷ではなく、ジャクソンは気合で耐えて相手を射殺したという。 オコンネルの決闘1815年2月2日 イギリスアイルランドダブリン郊外 勝者ダニエル・オコンネル 敗者ジョン・デステール † アイルランド民族運動家でアイルランド人の大同団結が必要と考えるオコンネルがアイルランド協会を批判し、これに協会のジョン・デステール(John D'Esterre)が怒って決闘になった。最初に撃ったデステールの弾は外れ、次に撃ったオコンネルの弾はデステールの股を撃ち抜いた。デステールは立ち会った医師に搬送されたが、翌日に死去。良心の呵責を感じたオコンネルは決闘は二度とやらないと誓ったという。 ウェリントン=ウィンチルシー決闘1829年3月23日 イギリスロンドンハイド・パーク 初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー(英国首相) 第10代ウィンチルシー伯爵ジョージ・フィンチ=ハットン(英語版) ウェリントン公は当時のトーリー党政権の首相、ウィンチルシー伯はホイッグ党所属の政治家で熱烈なプロテスタントであり、両者はカトリック救済法案の是非を巡って対立し、それがこじれて決闘になった。「撃て」の声がかかると公は伯に銃口を向けたが、伯は銃口を空に向けたままだったため、公も撃つのをためらい、ここで介添人が伯の謝罪の手紙を公に渡して公が受け入れて決闘は双方無傷のまま終了した。 ガロアの決闘1832年5月30日フランス王国ジャンティイ 勝者ペシュー・デルヴァンヴィル 敗者エヴァリスト・ガロア † 群と代数方程式の関係を示すガロア理論で知られる数学者ガロアはこの決闘で銃弾を受けて重傷を負い、翌5月31日に腹膜炎により20歳にして死去した。決闘の詳細は不明な点が多いが、大デュマの回想録によれば決闘相手はガロアと同じく「人民の友」のメンバーで共和主義者だったペシュー・デルヴァンヴィル(Pescheux d'Herbinville)だったという。決闘場所はパウル・デュピュイ(フランス語版)の書いた伝記によればジャンティイのグラシエールの沼の近くだったという。決闘の理由は恋愛のもつれ説、警察の陰謀説、自殺説などがあるが、当人が死去の直前に残した言葉などから恋愛説が有力である。 プーシキンの決闘1837年2月8日(旧暦1月27日) ロシア帝国サンクトペテルブルクチョールナヤ・レチカ(ロシア語版) 勝者ジョルジュ・ダンテス 敗者アレクサンドル・プーシキン † 「ロシア文学の父」と呼ばれる詩人・作家プーシキンは妻ナターリアと噂のある近衛騎兵隊将校ダンテスと決闘に及んだ。合図があった後ダンテスが先に発砲し、プーシキンに命中。駆け寄る介添人を払いのけたプーシキンは肘をついて身を起こし「待て、まだ撃つだけの力は残っている」と叫んだ。それを聞いたダンテスは腕で胸をかばう態勢でプーシキンの発砲を待った。プーシキンが発砲した弾はダンテスの腕に命中したが、胸には届かず致命傷にならなかった。プーシキンはそこで力尽きて倒れ、2日後に死去した。 ラッサールの決闘1864年8月28日 スイスカルージュ 勝者フォン・ラコヴィッツァ伯爵(英語版) 敗者フェルディナント・ラッサール † ラッサールは全ドイツ労働者協会会長を務める社会主義者。ラコヴィッツァ伯はワラキアの貴族。ラッサールはヘレーネ・フォン・デンニゲス(ドイツ語版)との恋愛を巡るもつれから彼女の父であるバイエルン外交官ヴィルヘルム・フォン・デンニゲス(ドイツ語版)に決闘を申し込んだが、デンニゲスはヘレーネの婚約者ラコヴィッツァ伯が代わりに決闘に応じると返答し、ラッサールはそれを承諾。決闘は3つ数えてから撃つことになっていたが、「2(ツヴァイ)」の後「3(ドライ)」を待たずにラコヴィッツァ伯が発砲してラッサールの腹部に弾を命中させた。続いてラッサールも発砲したが当たらなかった。ラッサールは立ち会った医師に搬送されたが、3日後に死去した。
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