長府藩主とは? わかりやすく解説

長府藩主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 16:30 UTC 版)

毛利匡広」の記事における「長府藩主」の解説

享保3年1718年4月15日萩藩主・毛利吉元要請により長府藩再興し、旧長府藩領のうち38千石分地された。吉元は、元平従兄にあたる綱元の子で、長府毛利家から宗家萩藩主)を継いでいた。このため、吉元は長男元朝綱元跡目を、三男の元陳に自身跡目継がせることとしていた。しかし元陳が早世したため、吉元は長府藩主となっていた元朝新たな嗣子として自身の許に戻し代わりに吉元の弟・元矩が長府藩主となっていた。その元矩も早世したため危うく断絶しかけたところで、血縁的に近い元平白羽の矢立ったのである本家筋にあたる長府藩主家を継いだ元平は、諱を匡広と改めた。「匡」の字は祖先大江匡衡大江匡房偏諱由来し、この字を使用したのは、秀元流長府藩主家では吉元の2人の弟、毛利匡英(本多忠次)・匡以(まさもち)に続いて3人目歴代藩主の中では初となる(以降、十男の匡敬(重就)やその子である匡満、匡芳も用いている)。 元平(匡広)が長府藩主家を継いだことにより、清末藩一時的に廃藩となる(のち七男・政再興)。また、長府藩家格無城落とされるが、後年旧来の5万石に復して家格城主格とされた。 享保5年1720年5月5万石となる。藩政では藩財政再建のために倹約令出したが、享保の大飢饉大被害受けたため、一層倹約厳しくせざるを得なくなった。さらに農業奨励した絵画通じ自画像残している。 享保14年1729年9月19日長府死去した享年55。五男の親就(師就)が跡を継いだ

※この「長府藩主」の解説は、「毛利匡広」の解説の一部です。
「長府藩主」を含む「毛利匡広」の記事については、「毛利匡広」の概要を参照ください。

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