長府藩士・三吉慎蔵とは? わかりやすく解説

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長府藩士・三吉慎蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 08:02 UTC 版)

三吉慎蔵」の記事における「長府藩士・三吉慎蔵」の解説

天保2年1831年)、長府藩今枝流剣術師範小坂土佐九郎次男として生まれる。天保8年1837年)、田辺左衛門養子となり、藩校敬業館入学天保10年1839年)、諸武芸師範入門嘉永2年1849年)、長州藩明倫館入学宝蔵院流槍術長じ安政2年1855年)には長州藩師範小幡右衛門より免許皆伝を受ける。 安政4年1857年)、長府藩士・三吉養子となり、藩主毛利元周近習扈従役として江戸随従している。文久3年1863年)、下関外国砲撃事件により大砲鋳造掛締方・精兵諸事肝煎就任慶応2年1866年)、長府藩士・印藤聿仲介坂本龍馬知遇を得る。長府藩より京都情勢を探るよう命じられ薩長同盟取り纏めつつあった龍馬と共に下関出発伏見・寺田屋入った1月23日3月9日夜半薩長同盟成立させた龍馬から桂小五郎西郷隆盛らによる巨頭会談結果聞いているところを伏見奉行配下捕り方踏み込まれる。慎振るって応戦し包囲され寺田屋奇跡的に脱出。傷を負った龍馬材木小屋に隠すと単身薩摩藩邸に走り救援要請して龍馬の命を助けた寺田屋事件)。寺田屋事件については『三吉慎蔵日記抄録』に詳しく司馬遼太郎長編小説竜馬がゆく』の叙述もこの史料則っている。 3月5日4月15日)、薩摩軍艦胡蝶丸は龍馬とその妻・お龍、慎乗せて大阪出港。慎下関下船し長府藩情勢急転報告した。なお慎寺田屋事件での功績によって長州藩主毛利敬親から刀の下賜長府藩主から20石の加増を受け、同藩目附役に任ぜられている。 6月7日7月18日)、第二次長州征討四境戦争)が始まると慎長府藩報國軍監就任高杉晋作指揮のもと長州藩奇兵隊と共に幕府軍と交戦し、これを破った慶応3年1867年)、龍馬長崎から土佐にむかう途中で下関寄港し廻船問屋伊藤家に妻のお龍預けたこの際龍馬は「万一のご報知仕候時ハ、(略)愚妻おして尊家に御養置可被遺候よふ」との書簡送り朋友・慎お龍後事託している。慎龍馬との約束通りお龍君枝姉妹長府自宅引き取って3ヶ月面倒を見た。翌慶応4年1868年3月にはお龍高知坂本家送り届けている。

※この「長府藩士・三吉慎蔵」の解説は、「三吉慎蔵」の解説の一部です。
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