楢崎龍
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楢崎 龍(ならさき りょう、天保12年6月6日(1841年7月23日) - 明治39年(1906年)1月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代の女性。名は一般にお龍(おりょう)と呼ばれることが多い。
注釈
- ^ 小松清廉が先であるという異論もある[1]。
- ^ 阿井景子 『龍馬と八人の女性』ではこの説について否定的なスタンスを取っている。
- ^ 将作は安政の大獄で獄死したとされていたが、近年では赦免後に病死したことが明らかになっている[3]。
- ^ 慶応元年9月9日付書簡(原文「女曰ク、殺し殺サレニはる/″\大坂ニくだりてをる、夫ハおもしろい、殺セ/\といゝけるニ、(後略)」[4]。
- ^ 慶応2年12月4日付書簡(原文「此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり」[19]。
- ^ 鈴木かほる『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』ではこの話の出所となった戦前の新聞記事には事実関係の誤謬が多い(お龍より5歳下の松兵衛を「松兵衛老人」としていたり、造船業の実業家であったと記されているなど)として否定的である。
- ^ 松兵衛の除籍簿写に「楢崎て以(貞)ノ孫入籍/養嗣子松之助/明治七年八月十五日生」とある[41]。
- ^ 原文「龍馬が生きて居つたなら、又、何とか面白い事もあってせうが」[45]。
- ^ 実際に写真が公開されたのは明治37年の「東京二六新聞」であり、また、安岡秀峰名義で公表されたのはお龍が死去した際の明治39年1月15日付の「万朝報」である。
- ^ 2008年の科学警察研究所の鑑定書では、正確には「別人と判定するに足る形態学的相違点は認められない」「両者を同一人と判定する上で有効な形態学的類似所見が散見される」と記されており、最終的に「同一人の可能性がある」と結論付けている。
- ^ 鈴木かほる「龍馬が愛した女たち-お龍を中心に-」(『坂本龍馬伝』、新人物往来社、2009年掲載)では「警察庁科学警察研究所による確たる検証結果が得られなかった」とコメントしている。
出典
- ^ a b 「日本初の新婚旅行は小松帯刀?通説“龍馬”に異論登場」2008年10月16日付読売新聞
- ^ 阿井 2005, pp.209-212
- ^ 『坂本龍馬歴史大事典』p.98
- ^ 『龍馬の手紙』p.142
- ^ a b c 慶応元年9月9日付書簡(『龍馬の手紙』p.133-146)
- ^ 「続反魂香」(坂本 2010, pp.79-83)
- ^ 鈴木 2007, p.36
- ^ 鈴木 2007, p.34
- ^ 『坂本龍馬と海援隊』p.84
- ^ a b 坂本 2010, p.86
- ^ 鈴木 2007, p.40
- ^ 『反魂香』(一坂 2009, pp.48-49)
- ^ 『千里駒後日譚』(坂本 2010, pp.101-102)
- ^ 『反魂香』(坂本 2010, pp.103-105)
- ^ 坂本 2010, p.188
- ^ 『千里駒後日譚』(坂本 2010, pp.111-113)
- ^ 『芸西村の歴史を綴る』、門脇鎌久、芸西村教育委員会、2016年、P39
- ^ 『龍馬の手紙』p.237-243
- ^ 『龍馬の手紙』p.257-258
- ^ 『反魂香』(一坂 2009, p.94)
- ^ 慶応2年12月4日付書簡(『龍馬の手紙』p.257-265)
- ^ 『反魂香』(一坂 2009, pp.89-103)
- ^ 『坂本龍馬歴史大事典』p.146
- ^ 鈴木 2007, pp.74-77
- ^ 慶応3年5月28日付書簡(『龍馬の手紙』p.364-370)
- ^ 坂本 2010, pp.137-139
- ^ 『阪本龍馬の未亡人』(鈴木 2007, pp.109-110)
- ^ 『反魂香』(鈴木 2007, pp.89-91)
- ^ 『千里駒後日譚』(坂本 2010, pp.139-140)
- ^ 阿井 2005, pp.184-187
- ^ 『千里駒後日譚』(鈴木 2007, p.245)
- ^ 『反魂香』(鈴木 2007, pp.193-194)
- ^ 鈴木 2007, pp.121-122
- ^ a b 『反魂香』(鈴木 2007, pp.123-124
- ^ 『続反魂香』(鈴木 2007, p.127)
- ^ 『実話雑誌』(鈴木 2007, pp.130-131)
- ^ 鈴木 2007, p.131
- ^ 『反魂香』(一坂 2009, p.176)
- ^ a b 鈴木 2007, pp.132-136
- ^ 安岡秀峰『阪本龍馬の未亡人』(鈴木 2007, p.258)
- ^ a b 鈴木 2007, pp.128-131
- ^ 阿井 2005, p.190-191
- ^ 『坂本龍馬伝』p.116-117
- ^ 『千里駒後日譚』(一坂 2009, p.203)
- ^ 『千里駒後日譚』、(鈴木 2007, p.250)
- ^ 『雑誌実話』(鈴木 2007, pp.143-144)
- ^ 阿井 2005, pp.196-197, p.200
- ^ 鈴木 2007, pp.154-157
- ^ 坂本 2010, p.151
- ^ 明治37年12月15日「東京二六新聞」(鈴木 2007, p.21, 155)
- ^ 鈴木かほる『史料が語る 坂本龍馬の妻お龍』p.147
- ^ 『海軍夜話』
- ^ a b 『続反魂香』(鈴木 2007, p.220)
- ^ 昭和57年12月22日付高知新聞
- ^ 鈴木 2007, pp.22-26
- ^ 阿井 2005, pp.205-212
- ^ 『若い日の「お龍さん」写真は本物? 警察庁科警研が鑑定』(2008年5月15日付読売新聞)
- ^ 『やっぱりお龍さん? 写真の女性、龍馬の妻の「可能性」』(2008年5月16日付朝日新聞)
- ^ 『お龍:異論あった若い写真「別人の根拠なし」』(2008年5月15日付毎日新聞)
- ^ 『若き日の龍馬の妻と「同一人の可能性」科警研』(2008年5月15日付産経新聞)
- ^ 森重和雄「古写真探偵 龍馬が愛したおりょうさん」(『歴史通』2011年7月号掲載)
- ^ 坂本 2010, pp.173-178
- ^ 平成26年1月5日付読売新聞
お龍(横川のお龍)
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都の花売り・白川女の装束をした上品な顔立ちの女。二年前から林蔵と組んで仕事をしている。変装の名人で、鬼気迫るほどの演技を見せる。
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お龍(横川のお龍)
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柳次と組んでの幽霊芝居を得意とし、小娘から老婆まで、どんな女にも見事に化ける。
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お龍
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龍馬の恋人。タイムトラベルの歪んだ影響力のせいでイライラが止まらず、帰還したばかりの龍馬を襲う。
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お竜
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第2話登場。ケンカが強く弱い者の味方で暴力に屈しない女性。今は「飛竜軒」という料理屋を営んでいる。
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お竜(おりゅう)
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通称:金色のお竜。兵の章で登場する女性の捕り方。十手と分銅鎖を手に盗賊だった二代目カブトを追って神社にやってきたところ、そこに居合わせた山本勘助の娘・静と瓜二つだったことから成り行きでカブトの提案した勘助救出作戦に協力することとなる。
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お竜(おりゅう)
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「オヤマ! 菊之助」の記事における「お竜(おりゅう)」の解説
祭で的屋をしており、ズルい手で金を巻き上げている。第107話のみの登場。
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