龍馬の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 14:33 UTC 版)
龍馬の訃報は、12月2日に下関に伝えられた。覚悟していたものの、お龍は髪を切って仏前に添えると、大泣きしたという。龍馬との間に子はいなかった。後年、お龍は龍馬が亡くなった晩に、血だらけの龍馬が夢枕に立っていたと語っている。 龍馬の死後、暫くは(寺田屋遭難の際にも龍馬と一緒に行動した)三吉慎蔵が、お龍の面倒をみていた。また生前の龍馬の意思により、妹・起美が海援隊士の菅野覚兵衛(千屋寅之助)と結婚した。 慶応4年(1868年)3月、お龍は龍馬の未亡人として土佐の坂本家に送り届けられた。だが、坂本家での生活は長くは続かず、3ヵ月ほどで立ち去ることになる。龍馬の姉・乙女との不仲が理由との説もあるが、お龍本人は「乙女さんには親切にしてもらいました」と後年語っている。不仲だったのは義兄の権平夫婦で、お龍は後年の回顧談で龍馬に下る褒賞金欲しさに自分を苛めて追い出したと恨み事を述べている。
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