龍馬の進言と大政奉還
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いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年6月9日(1867年7月10日)に藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち、兵庫へ向かった。京都では将軍・徳川慶喜および島津久光、伊達宗城、松平春嶽、山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に提示した。それは以下の八項目であった。 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還) 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事(議会開設) 有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革) 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正) 古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定) 海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設) 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設) 金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策) 以上の八項目は、長岡謙吉が筆記したとされ、歴史小説などでは「船中八策」と呼ばれ、のちに成立した維新政府の綱領の実質的な原本となったとされてきた。しかし、江戸時代のものとは思えない文体で書かれており、内容も引用されたものによって食い違いがあり、かつ龍馬によって書かれた船中八策の原本は見つかっておらず、近年では船中八策は創作とされる。同年11月に書かれた新政府綱領八策(後述)の自筆本は実在しており、思想や主張の内容はこれをと基に遡及して作られたものとされる。
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