寺田屋遭難
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寺田屋遭難(てらだやそうなん)は、幕末の慶応2年1月23日(1866年3月9日)、京都の寺田屋に宿泊していた坂本龍馬と護衛役である長府藩士の三吉慎蔵が、伏見奉行の捕り方に襲撃された事件[1]。寺田屋事件(てらだやじけん)[2]、坂本龍馬襲撃事件(さかもとりょうましゅうげきじけん)[1]ともいう。
注釈
出典
- ^ a b “寺田屋遭難~坂本龍馬襲撃事件”. WEB歴史街道 (2022年7月5日). 2023年1月3日閲覧。
- ^ “寺田屋事件で龍馬かくまった薩摩藩屋敷、絵図見つかる”. 日本経済新聞 (2017年6月3日). 2023年1月3日閲覧。
- ^ 『芸西村の歴史を綴る』、門脇鎌久、芸西村教育委員会、2016、P39
- ^ “龍馬・お龍日本最初の新婚旅行地 霧島市”. 霧島市総合観光案内. 2013年11月14日閲覧。
- ^ “新婚旅行、日本初は小松帯刀?/かごしま探検の会 龍馬の10年前、霧島へ”. 南日本新聞. (2008年1月27日) 2013年11月14日閲覧。
- 1 寺田屋遭難とは
- 2 寺田屋遭難の概要
- 3 経過
- 4 脚注
寺田屋遭難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 14:33 UTC 版)
各地を奔走していた龍馬は、懇意にしていた伏見寺田屋のお登勢にお龍を預け、お龍は「お春」の変名でお登勢の娘分になった。この時期についてお龍は龍馬と2人で歩いていたら新選組と遭遇し、龍馬が慌てて隠れてしまった話や、桐野利秋に寝床を襲われた話などを、後年回顧している。また、新選組局長の近藤勇がお龍に懸想して、櫛や簪を買って来たという話も伝えている。 慶応2年(1866年)1月22日、龍馬の仲介もあって、薩長同盟が成立した。その翌23日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と寺田屋に投宿していた。その晩、入浴していたお龍は窓外に多数の捕吏がいることに気付き、咄嗟に袷(あわせ)一枚を羽織って二階に駆け上がり龍馬と三吉に通報した。お龍の機転により、龍馬と三吉は不意打ちを受けることなく応戦し、負傷しつつも辛うじて脱出できた。(寺田屋遭難)お龍は龍馬たちを家屋の裏木戸から逃がしたが、裏木戸には大きな石を載せた漬物槽があり、それらをどかして逃げ道を作った。後日お龍が確かめると、槽と石は到底、動かすことができない重さだったそうである。 龍馬はこの事件の顛末を慶応2年12月4日付の手紙で兄・権平に詳しく報告し、その際にお龍のことを「名は龍、今は妻です」と紹介している 。また、姉・乙女宛ての手紙では「このお龍がいたからこそ、龍馬の命は助かりました」とお龍への感謝の気持も表している。
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