作中の龍馬像
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本作は「無名だった龍馬を再発見し、現代に至る龍馬像の原型を形作った」とされる。しかし、のちの龍馬の伝記に見られる「殺すために訪問した勝海舟の弟子になった」「薩長盟約交渉の際に、盟約を渋る西郷隆盛を龍馬が一括して合意が実現した」「大政奉還の建言書として船中八策を構想した」といったエピソードは見られない。これは執筆当時それらのエピソードが世に出ていなかったためだとされている。薩長盟約に関しては、高杉晋作の功山寺挙兵を知った龍馬が薩摩藩を説得して(薩摩の拘束した)長州藩捕虜を送還させる話と、長州に赴いて高杉を説得した話が龍馬の活動とされる。大政奉還の建白は後藤象二郎の立案であるとして龍馬の関与は描かず、一方で慶応3年10月の二条城会議に龍馬が出席して慶喜に大政奉還を進言・説得するという(史実にない)記載がなされている。 また、寺田屋遭難事件後に龍馬が妻のお龍と薩摩国で旅行する話を「ホネー、ムーン」(ハネムーン)と表現したことが知られ、「龍馬が日本で最初の新婚旅行をおこなった」とする説の最初とされる。 自と彼の西洋人が新婚の時には「ホネー、ムーン」と呼びなして花婿花嫁互ひに手に手を取りて伊太利等の山水に逍遥するに叶ひたりとや謂はん — 「汗血千里の駒」第三十六回、『政治小説集 1』岩波書店〈新日本古典文学大系 明治編 16〉、2003年 この旅行での霧島山(高千穂峰)登山を本作では「お龍と書生だけで上った」と記しており、山頂の逆鉾を抜くのもお龍である(下山後に龍馬に叱られる下りがある)。これらの背景には、紫瀾が女権拡張論者であった点が指摘されており、自由婚姻論者であった紫瀾(実際にそうした論説を執筆している)が、その主張に沿って、自由恋愛で結婚して西欧流の新婚旅行をし、迷信にとらわれずに振る舞うというお龍の描写につながったとされる。
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