長崎・下関での生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 14:33 UTC 版)
同年6月、傷が癒えた龍馬は第二次長州征伐で幕府軍と戦う長州へ向かうことになり、お龍は途中の長崎で下船し小曾根英四郎家に預けられた。翌慶応3年(1867年)2月10日、龍馬は下関の伊藤助太夫家を借りて亀山社中(後の海援隊)の拠点を置き、お龍はここで妹・起美と日々を過ごすようになる。下関滞在中、龍馬とお龍は巌流島で花火を打ち上げたり、歌会に出席して楽しんだ。同年5月28日、龍馬はお龍へいろは丸事件の経過報告とともに彼女を気遣う手紙を送っており、これが現存するお龍宛ての唯一の手紙である。お龍と龍馬が最後に会ったのは同年9月に下関に寄港した際であった。 海援隊士・安岡金馬の子・重雄(秀峰)は、この時期のお龍について「龍馬はぞっこん惚れこんでいたが、(海援隊の)同志たちは嫌っていた。生意気で龍馬を傘にきて同志たちを下風に見たがっていた」と述べている。土佐藩士・佐々木高行は、お龍のことを「有名なる美人なれども、賢婦人なるや否やは知らず。善悪ともに兼ぬるように思われたり」(大変な美人だが、賢婦と言えるかどうかは疑わしい。善にも悪にもなるような女)と評している。 ちなみに、お龍自身は龍馬の事業や仕事には全く興味が無く、知らされるまで彼の業績を知らずにいた。全てを知るのは明治政府から伝えられたときだったという。 同年11月15日、龍馬は京都・近江屋で暗殺された(近江屋事件)。
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